「和同開珎」 秩父市和銅保勝会
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「和銅」の時代と人物群像
 和銅が発掘され献上されたのは、今から1287年前のことである。これを年表で見ると、「西暦708年和銅元年(1月11日改元)、1月武蔵国より銅を献上、よって改元する。 2月催鋳銭司(さいじゅぜんし)をおく。平城の地に新都造営の詔がでる。 5月 銀銭(和同開珎)を発行する。 8月銅銭(和同開珎)を発行する。」(岩波版「日本史年表」)というのが、和銅元年の歴史である。年表で見るかぎり、まさに銅一色であったと言える。そこで、和銅の時代のうち、和同開珎については、平城遷都の問題とか通貨の歴史上の機能とかの観点から見る必要があろうと思うので別項に譲ってここでは「銅の献上・改元」「催鋳銭司」をめぐる人物像に焦点を当ててみたい。

 いずれにしても、非常に文字資料に乏しい時代であって、「続日本紀」を唯一の依り所とせざるを得ないことが多いので、以下、年号日付のみで特に断りなく引用する資料はすべて「続日本紀」からのものと了承願いたい。

1.和銅の採掘にかかわった人物
 武蔵国秩父郡に「自然になれる和銅」(おのずからになれるにぎあかがね)、つまり純度の高い自然銅が出て、都に献上されたという慶雲5年、改元されて和銅元年1月11日の記事の中に、日下部宿禰老、(くさかべのすくねおゆ)、津島朝臣堅石(つしまのあそんかたしわ)、金上无(こんじょうむ)の3人がいる。続く2月11日には、始めて催鋳銭司を置いて、多治比真人三宅麻呂(たじひまひとみやけまろ)を任命したことの記事がある。この4人は「秩父」「和銅」に関連して個々にも又相互にも、かなり深いかかわるがあると思われるので、史料や各種研究物によって整理検討してみたい。

 先ず、催鋳銭司という通貨鋳造の司の役目についた当時従5位上の三宅麻呂は間違いなく和銅と非常に深いかかわりがあり、政治の中枢にあった藤原不比人が経済政策の中心に据えた銅銭鋳造の仕事を推進する優秀な官僚でもあったという。なお、鋳銭司は、地方の国府に近いところに置き、国府に管理させたというから、武蔵の国富が大宮か府中かは確然としないが、銅山があり、よい鋳型土、精良な水等に恵まれたところに設置されたことを考えると、和銅山に近い「銅銭堀」、箕山に残る「鋳銭房」の地名等からみて、黒谷の地に鋳銭司が置かれ和同開珎が鋳造されたことは十分に考えられることである。とすれば、和銅の採掘、鋳造を通じて、三宅麻呂と秩父の関係はいよいよ深くなる。

 一方、採銅、鋳造などの知識・技術面にかかわって、日下部宿禰老等3人の功績の大きさも特筆されねばならないであろう。特に、和銅献上の折、無位であったにもかかわらず一躍従5位以下に叙せられた金上无が注目される。和銅の発掘献上を祝福して大赦を行ない、恩賞を与え、昇叙がなされたのはわかるが、従6位以下の老、堅石と並んで同じ従5位以下に叙せられたのであるから、その栄典たるや特別と言わねばならない、いかにその貢献度が高かったかということを示す事実と考えられる。

 では、なぜその金上无が和銅採掘と深く結び付いているかということであるが、金上无と津島朝臣堅石との関係をうかがわせるに足る記事が続日本紀にあると見る久下司氏の論には説得力がある。和銅献上の2年前慶雲3年11月3日、文武天皇は、新羅国王に、「大使の従5位以下美努連浄麻呂(みのむらじきよまろ)の福使として従6位以下の津島連堅石(むらじ)(当時は連、その後和銅元年までに朝臣になったらしい)を遣わす」という勅書を賜ったいう記事からみて、遣新羅副使としての在任中に新羅人の金上无との結び付きができたと考えられるというのである。

 日下部宿禰老については、和銅献上時に3人一緒の授位のことだけで、霊亀3年(717年)4月25日従5位上に叙せられ、養老5年(721年)正月23日、皇太子(首皇子、(おひと)後の聖武天皇)のお付きを命じられ、神亀元年(724年)2月22日、従4位以下に叙され、天平4年(732年)3月22日、位階はあるものの、官職はなく没しているという記事があって比較的記録は多いが和銅との結び付きを思わせる事実は余りないようである。

 さらに1,2付け加えれば、多治比真人三宅麻呂は、益々出世して高位についたが、最後は失脚している。然しその後多治比真人県守をはじめとして奈良、平安にわたり一族7人が武蔵国司となったり、9世紀後半になると多治比武信が武蔵国に配流され、秩父・児玉を押領することになる。その後、京より下った峯時が、武蔵に居住し、石田牧(今の長瀞町岩田?)別当を兼ねて丹貫主と号し、以後丹治氏と称して、その子峯房以下になって秩父郡の領主として、武蔵7党の1である丹党としの活躍につながってくるようである。

 金上无について言えば、叙位を受けて間もない和銅2年11月2日には伯耆守(ほうきのかみ)(今の鳥取県)に任ぜられている。

2・「多胡碑」をめぐって
 和銅の時代の人物群像のうちでも、最も傑出しているのは多治比真人三宅麻呂といってよいだろう。その三宅麻呂に間違いないと思われる人物が名を連ねて刻されているのが「多胡碑」(たごのひ)である。群馬県多野郡吉井町池(いけ)字御門(みかど)にあって、国の特別史跡である。和銅4年(711)の建立で、高さ120センチ、幅60センチの角柱で、上に笠石(幅90センチ、厚さ15センチ)が乗る牛伏砂岩(安山岩の一種)の碑石に6行80文字が刻まれた立派なものである。現在は堅牢な建物の中に収められているが、昭和20年終戦直後には、外国への持ち出しを恐れて付近の畑に3年も埋められていたという。奈良時代に建てられた数少ない貴重なこの歴史史料は、地方の人々の神様であって「羊さま」と呼ばれる信仰の対象でもあったのである。その碑文は次のようなものである。(1部現在の活字にない文字は直してある)
弁官符上野国片岡郡緑野郡甘/良郡并三郡三百戸郡成給羊/成多胡郡和銅4年3月9日甲寅/宣左中弁正五位下
多治比真人/太政官二品穂積親王左太臣正二/位石上尊右太臣正二位藤原尊
(弁官の符に、上野(かみつけぬ)の国の片岡の郡(こおり)、緑野(みどの)の郡、甘良(から)(甘楽)の郡并(ならび)に3郡の内300戸を郡と成し、羊に給して、多胡郡と成すとあり。和銅4年3月9日甲寅(きのえとら)の宣なり。左中弁は正5位の下多治比の真人、太政官は二品穂積(にほんほずみ)の親王(みこ)、左大臣は正2位石上(いそのかみ)の尊(みこと)、右大臣は正2位の藤原の尊なり。)(尾崎喜左雄博士の読み方)

 大意は、「朝廷では上野国の3郡のうちから300戸をさいて1郡をつくり、羊という人に給して多胡郡と命名した。和銅4年3月9日の命令である。左中弁(太政官に属する官名)は多治比真人三宅麻呂、太政官は穂積親王(天武天皇の皇子 ?〜715)左大臣は石上麻呂(いそのかみのまろ)(640〜717・舒明12〜養老1)、右大臣は藤原不比等(ふひと)(藤原鎌足の子 640〜720・斉明5〜養老4)である」ということになる。

 この碑文の内容は、和銅4年3月6日の続日本紀の「上野国の甘楽郡の織裳(おりも)・韓級(からしな)・矢田・大家(おおやけ)、緑野郡の武美(むみ)、片岡郡の山(やま)等6郷を割(さ)きて、別(べち)に多胡郡を置く」という記事に相応していて、6郷は50戸1里制の6里になり、300戸と数も合うのである。

 そこで、問題になるのが「羊に給して多胡郡と成す」の「羊」は、一体何なのかということである。大方の研究の結論は人名に傾いているが、では、どういう人物かということになると、又見方がいろいろに分かれてくる。帰化人の多い地方に新たに郡を建て、その長になった羊と催鋳銭司である三宅麻呂が、かなり中心的にこの碑文の内容にかかわっているところから、羊が渡来系であり、銅銭の鋳造と深い関係があると思われるふしが多く見られるのである。そこから「羊」が伝説の羊太夫と同一視されてもおかしくないような符合が生まれて来るのである。「紙面の都合で「羊太夫伝説」は次号以降に回します。」
「参考文献等」
●吉井町誌(吉井町・昭和49年刊)
●塔(梅原 猛・集英社・昭和57年刊)
●銅の考古学(中山 裕・雄山閣・昭和62年)
●銅の文化史(藤野 明・新潮社・平成4年刊)
●和銅(大陸文化より見たる日本上代文化発達史の研究・下巻)(久下 司・昭和37年刊)他
「和銅会報」第6号より

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