「和同開珎」 秩父市和銅保勝会
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富本銭と和同開珎
 平成11年・1999年の正月気分も抜け切らない1月19日の夕方、テレビ・ラジオは一斉に「富本銭出土」のニュ―スを大々的に報道した。翌、20日の新聞各紙も、多くは一面トップにこの記事を載せた。そして、まだ新聞記事にゆっくり眼を通す暇もないうちから、和銅保勝会(会長 太田口八郎氏)へ、新聞・テレビ・ラジオの取材攻勢が始まった。質問は「和同開珎より古い富本銭の発見をどう思いますか」「和同開珎を日本最古の通貨としてきた和銅保勝会は活動方針を変えるのですか」という類に集中した。それらの記事を見る時、富本銭の出土という事実と、その結果に関連する周辺ニュ―スとの間に、かなり大きな隔たりがあって、誤った歴史判断に陥ったり、興味本位の推測が入り込むのではなかろうかという心配が出てきた。

 そこで、あらためて「貨幣の歴史」と「日本史の中の和同開珎」というようなことを、考えてみることにした。
開元通宝和同開珎富本銭
開元通宝和同開珎富本銭
いずれも 円形直径約2.4cm、方孔一辺約0.6cm
和同開珎は開元通宝(621年発行の唐の銅銭)をならって造られた。

※富本銭の写真は1985年に平城京跡から出土したものです。(奈良国立文化財研究所許可済)

1.日本で一番古いお金は何
 新聞の大見出しの
「日本最古の貨幣 『富本銭』奈良飛鳥池遺跡で出土」(読売新聞)
「『和同』以前 最古の貨幣―奈良で発掘」(毎日新聞)
「日本最古の貨幣『富本銭』が出土 七世紀後半 和同開珎以前と判断」(埼玉新聞)
などを見る限りでは、「和同開珎より古い富本銭が出土したことをどう思いますか」という取材記者の質問も当然に聞こえるような表現になっている。というのは、確かにこれらは「富本銭が最古の貨幣」という前提から出発しているからなのである。しかも、更に飛躍したとも思われる小見出しもあって、
「歴史教科書 書き換えへ」(東京新聞)
「古代史の定説覆す」(読売新聞)
「社会の教科書 書き換えなきゃ」(毎日新聞)
「『和同開珎説』覆る」(朝日新聞)
「歴史の書き換え必至」(読売新聞)
とまで書いている。確かにこのような見出しだけ見ると、今すぐにでも教科書の内容が変わるのではないかと思う人がいてもおかしくはない。然し、よく読めば各紙とも、解説や識者への取材記事の見出しなどでは微妙な色合いの変化と差異があるのである。

 その一つは、飛鳥池遺跡は金、銀、銅、水晶、ガラスなど製造加工する大工房跡で、そこで七世紀後半、天武天皇期に富本銭が鋳造されたのではなかろうか(朝日新聞)とか、富本銭にお金の可能性はあるが、流通範囲は果たしてどうだったのか(日本経済新聞)という疑問が投げかけられたりしている。
 もう一つは、日本の国家体制や政治的な視点から、唐を模倣しての国造りの一つに貨幣の鋳造が考えられていたと見る記事になっていて、本格の通貨というより、試作品的なものであり、和同開珎発行に先立っての地均しという見方が強いようである。

 このように、その論述は、殆どの新聞に共通していると言ってよいのであるが、問題なのは、貨幣の形としては富本銭が和同開珎よりも早く鋳造されたことが述べられてはいるが、お金として、つまり、一定の価値基準を備えた通貨として富本銭が流通した記述は殆ど見当たらないのである。つまり、一番古い通貨は何であったかの答えは全く出ていないと言ってよいのである。

2. 富本銭とはどんなお金なのか
 次に、一般には余り聞き慣れていなかったが、この度、にわかに脚光を浴びることになった富本銭について、大雑把に整理してみたい。

 富本銭というのは、江戸時代、寛政10年(1798年)の、いわば古銭カタログといった類の本に「富本七星銭」の名前で銭の図柄と共に載っていて、早くから貨幣研究者の間では知られていたようであるが、それは普通に使われるお金というより、「まじない銭」(専門的には厭勝銭(ようしょうせん)という)であって、江戸時代からのものと考えられていた。それが、昭和44年(1969年)に平城京跡から発掘されて一躍歴史的な考察の対象になってきたのである。しかも、平成3年(1991年)には、更に古い地層である藤原京跡から発掘されたことで、「さては、和同開珎より古い貨幣か」というように発展したのである。その結果、鋳造されたのは奈良時代、或いはそれより少し以前とも推定されはしたものの、学者の見解は依然として「富本銭は『まじない用』のものであった」ということに落ち着いたのである。一番最近では平成9年(1997年)大阪(難波宮)の細工谷遺跡から一枚発見されている。

 そして今回の飛鳥池遺跡からの発見である。これは今までの5枚の発見とは、その内容がかなり違う。その幾つかを挙げると、
1.発掘場所や、出土した富本銭の状態等から見て、そこ(飛鳥)で鋳造されたものと考えられる条件が揃っていること
2.富本銭が埋まっていた地層から出た木簡や古寺の瓦などの遺物が証拠となって、造られた年代も七世紀後半と確認できること
3.日本書紀に「今(天武12年・687年)よりは銅銭を用いよ」とある『銅銭』が何なのかという長い間(二百年間も)の疑問が解けて「ここにいう銅銭は富本銭のこと」となる可能性が出てきたこと
4.よく分からなかった『富本』という言葉の意味が分かったこと(当時の日本にも伝わっていた唐の「芸文類聚」という本などに「民を富ませる本は食(食べるもの)と貨(貨幣)だ」とあることからとったと考えれば、「富本と名付けたお金」と言うことができるのではないかという推測が可能になったこと)
などの発掘調査結果に基づいて、奈良国立文化財研究所は『富本銭は、わが国最初の流通貨幣である可能性がきわめて高い』という発表をしたわけである。その主旨は、あくまでも「可能性がきわめて高い」というのであって、富本銭が日本最古の通貨であると断定したのではない。つまり、今回の富本銭の発見によって、いよいよ「わが国最古の貨幣」の研究は「これからが本番である」ということなのである。

3.和同開珎は日本で最初の「通貨」
 先ず、各種報道機関に対する和銅保勝会の対応を、それらの記事で見ることにする。
 「あれ(富本銭)はあれ。貨幣として本格的に流通したのはこっち」「郷土の誇りとして後世に伝えるよう今後も頑張りますよ」と、40年間も遺跡の保存、啓蒙活動を続けている秩父市和銅保勝会(太田口八郎会長)は一歩も引かない(1月21日・埼玉新聞)
 「鋳造はあちらが先かも知れないが、続日本紀には、和銅元年に初めて銀銭、銅銭を行うとあり、正式な通貨としては和同開珎が最初だと思う」「歴史的価値は変わらないので、わが国初の看板を降ろすつもりは毛頭ない」と胸を張っている(同日・朝日新聞)
 「富本銭が日本最古と言うが、最初に世間一般に通用したのは和同開珎。中国にも実物が渡っていたそうじゃないですか。和銅の献上で改元もされた。それだけ重みがあります」と和同開珎が一番古い実用貨幣、という認識には変わりがない(同日・東京新聞)
 等々であって、太田口会長の発言は、日本の正史に照らして全く正確な認識に立っている。しかも『千二百有余年の歴史を持つ和銅は学術上意義があり、また観光的にも重要な遺跡である。この和銅遺跡並びにこれに関連する文化財及び名勝地の保存顕彰に務め、永く後世に伝えることを目的とする』という和銅保勝会の主旨にも叶った発言なのである。

 とは言え、私達は、鋳造年代を実証する可能性を秘めた富本銭の出現が、学術上、歴史研究上重要な意味のある発見であることは十分に認めるが、全国的に五百ヶ所以上からの出土を見、正倉院文書を始め多くの文献に流通の記録を残す和同開珎に比べて、今回も含めわずか六例の出土であり、文献上の記録が皆無に等しい富本銭を、にわかに「最古の通貨」とは断定し難いのである。「和同開珎」モニュメント

 然し、今回の富本銭発見に関する今後の研究調査については、慎重冷静に見極める必要があることは言うまでもないことである。平城京の造営のために使われたことを初めとして、日本で最初の「流通した貨幣」の発行の発端が『和銅献上』であったことは銘記しなくてはならない。和銅露天掘跡のモニュメントに『日本通貨発祥の地』とあることの深い意味もここにあるのである。
(文責・和銅保勝会理事 若林 好)
「和銅会報」第18号より

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