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| 和銅会報 第17号 平成10年4月13日発行 |
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「黒谷の和銅」関係の研究では、なんと言っても久下 司先生が、その第一人者であることは言うまでもない。その研究の成果は、一般の目に触れるものでは、和銅保勝会発行のパンフレット「和銅の由来」と、70頁の冊子「武蔵秩父郡和銅の遺趾」とがある。まとまったものとしては、「大陸文化より見たる日本上代文化発達史の研究下巻」があって、現地踏査と豊富な資料に基づく本格的な研究物であるが、一般に広く手に入るものでないのが残念である。 ところで、ここに紹介する久下 司先生の「和同開珎の誕生」であるが、これは、出版元も発表誌も、発表時期も不明である。然し、黒谷の和銅を大きな歴史的な見方も加えて、大変よくまとめられた紹介記事と思われるので、原文のまま収録して紹介することとした。 |
和同開珎の誕生 久下 司 |
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秩父郡より多量の和銅(自然銅から精錬した銅材)が貢献されると、元明天皇(※43代、在位707〜715年)はこの銅によっていよいよ歴代の懸案であった貨幣の鋳造を開始することとなった。もっとも貨幣発行の計画としては、すでに持統天皇(※41代、在位686〜697年)の8年(※694年)3月に初めて鋳銭司を設け、大宅麻呂らに大陸唐の制度にならって貨幣の鋳造を試みたのであったが、その資材の銅がなく、実現の運びに至らなかった。次の文武天皇(※42代、在位697〜707年)も即位されると、その3年(※699年)12月先帝の志をついで再び鋳銭司を設置し、直大肆中臣朝臣意味麻呂を長官にして着々その準備にかかった。しかし銅の輸入も思うにまかせず、また国内では手を尽くして調査させた銅山もついに発見できず、むなしい望みとなってしまった。 このような間に、わが国の人々はしばしば大陸の唐・韓諸国に往来して、その進んだ諸制度を視察し、貨幣の発達によって国家経済の実権が完全に中央王室に集中されているのを見て帰り、大いにその必要を強調していたであろうし、また韓国から帰化した人々も国家制定の貨幣が一日も早く発行されるように勧めていたであろう。このようなところへ思いもよらぬ大量の純良な秩父和銅が貢献されたのであるから、元明天皇ははじめて貨幣鋳造を実現されるに至ったのである。 |
和同開珎の鋳造 |
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そこで和銅元年(※708年)2月11日政府に催鋳銭司を設け、さきの武蔵国秩父郡へ採銅使として派遣した従五位上多治比真人三宅麻呂を任じた。この催鋳銭司とは、その後、銅産地の各国に設置される鋳銭司の中央監督機関であった。まずその料銅を近江国鋳銭司に送って、和同開珎を鋳造して朝廷に献納した。この8月己巳(※8月10日)の日に初めてこの銅銭を天下に発行した。貨幣の鋳造を初めて計画された持統天皇以来3代15年目でようやくこの実現を見るに至ったのである。わが国もいよいよ大陸諸国に伍して貨幣経済に立脚した政治と外交を行うことができるようになった。このようにして広くこれを国内一般に通用させ、従来の物々交換の慣習による不便を除こうとしたのである。 しかしながら一般国民は当時まだ貨幣というものの本質を知らず、その使用を好まなかったので、流通はいよいよせばめられた。民はかえって従来の物々交換の旧習を脱することができなかった。そこで朝廷ではこの新鋳銭の使用を大いに奨励し、和銅2年3月甲申(※3月23日)、交換の雑物の値が銀銭の四文以上の時は銀銭を用い、三文以下の時は銅銭を用いるようにと定めた。ついで同3年正月15日には九州の太宰府(福岡県田川郡採銅所村その他の銅)で鋳造した新貨「和同開珎」が献上され、同27日には播磨国から新鋳和同銭が上納された。このようにして和同銭は続々と新鋳したものが発行されていったのである。 そこで朝廷では同4年5月15日、穀(米)六升を銭一文に当て、百姓のために交換の基準を定め、おのおのその利を得られるようにした。さらに10月甲子(10月23日)、初めて官位によって禄を授ける規定を設けた。すなわち職事(※職掌の規定されている官人)の二品位(※親王に授けられた位)には各施(太い絹糸で平織りにした粗製の織物、「ふとぎぬ」ともいう)三十疋(※疋は規格の単位。時代によって異なるが当時で長さ五丈一尺、幅二尺二寸位)糸一百絢(※糸の荷姿の質量による単位)・銭二千文、王の三位には 二十疋・銭一千文、臣の三位には 十疋・銭一千文、四位には 六疋・銭三百文、五位には 四疋・銭二百文。六位・七位には各 二疋・銭四十文、八位・初位(※律令制位階で最下位、八位の下)には各 一疋・銭二十文、番上大舎人(※常時勤務でなく、分番で天皇の雑使など勤める下級官人)・帯剣舎人(※皇太子の護衛兵)・兵衛(※天皇の近辺を警護する武官)・史生(※諸官司で書記に当たる下級官人)・省掌(※各省への訴えの取り次ぎ、諸施設の整備などに当たる下級官人)・召使(※官人を召集する時、呼び出しの任に当たる)・物部(罪人の刑罰を担当し、獄を守る)・主師(※衛士を統領する者だったようである)等には糸二絢・銭十文と定め、女子もまたこれに準ずるとした。これによって官位を有する者、宮仕えをしている者は、みなその身分に応じて禄銭として和同銭を下賜されることとなった。 |
普及の努力と偽造 |
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このようにして和同銭は京の都では次第に広まっていったが、一般庶民は天下の大勢に暗くまだ貨幣使用には慣れていなかったので、銭貨で財貨を交換することを望まず、市場において止むを得ない場合に限り、わずかに売買されるに過ぎなかった。そこで政府では、六位以下の者で貨幣政策によく協力して、銭を十貫(一貫は千文)以上蓄えて献じたものには位一階をのぼらせ、二十貫以上に及んだものには二階をのぼらせまた初位以下には五貫以上に対して位一階を進めるという特別叙位の制度を設けて、広く新貨の流通を図ったのである。このように政府は苦心に苦心を重ねて普及を奨励した結果、和同銭は次第に民衆の生活にとけこんできた。 すると皮肉なもので、和同銭が広く天下に流通してきたのを見てとった悪辣な者たちは、民衆の無知と政府の貨幣奨励政策の蔭に便乗して、鉛・銅で悪質の銀銅銭を偽造して巨利を占める者が現れてきた。このような偽造貨が出回るとグレシャムの法則(※一六世紀イギリスの財政家グレシャムの「悪貨は良貨を駆逐する」という法則)の通り良質なものは退蔵されて、偽造の悪貨が横行するようになり、政府の貨幣政策を撹乱することとなったのである。しかしこの濡れ手で粟をつかむ味を覚えた偽造者は、極刑に処せられてもなかなかあとを絶たなかった。このことはまるで江戸時代に鐚銭(びたせん)という粗悪な鉄銭が私鋳され、また使えなくなった煙管(きせる)の頭を打ち平らめた雁首銭が銅銭にまじって市場に現れたのと同じである。 貨幣の偽造は支那では漢代から現われ、この盗鋳者に当局は頭を悩ましたが、わが国でも和同銭鋳造の最初から早くも偽造者が現われ、その後、千二百余年の間、政府の貨幣施策を妨害して経済を混乱することとなったのである。 |
各地の鋳銭司 |
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和同開珎の鋳銭司はだいたい地方の国府に近い銅山で、よい鋳型土と清良な水とに恵まれた地に設置し、国司の管理下で鋳造させていた。その期間は和銅元年(708年)から、淳仁天皇(※47代、在位758〜764年)の天平宝治4年(760)まで53年間にわたったが、鋳造は断続的であった。次にその鋳銭司の遺址に残る主なものを挙げてみよう。 (イ)武蔵鋳銭司 古伝によると元明天皇は和銅元年1月12日、武蔵国から和銅が献上されると大変喜んで、武蔵国に命じ、秩父郡和銅山の麓に鋳銭司を設置して、和同開珎を鋳造させたという。こんにち和銅山麓の小流の一部に銅銭堀(※「どうでんぼう」ともいう。鋳銭房との関わりも考えられる)の名が残っており、また箕山部落の一部には鋳銭房の地名がある。明治28年9月、東京古泉会の委嘱を受けた中川近礼氏は金山の銅座を調査してこれを周防・山城の鋳銭司に比較し、ここに鋳銭司のあったことを論証している。これによれば、当時同地に散在していた鉱滓(※「コウシ」、「コウサイ」という。精錬するとき生ずるかす、のろ)、大宮駅(現秩父市大宮)(※大字大宮なのか、記憶誤りなのか不明)某氏の所蔵する銅片、埼玉県小川町の某氏の蔵する高さ六寸径五寸の坩堝(るつぼ)など鋳銭に関する資料のあることを述べている。(※1.中川近禮氏の「武蔵國秩父郡黒谷村鑄錢遺跡」「武蔵國秩父郡原ヶ谷村大字黒谷銅山探檢ノ報告」の二文は発表されていて、手元にあるが稍曖昧な表現になっていて、明確な論証とは言い切れないように読みとれる。後刻、二文とも紹介したいと思っている。2.坩堝のことは確認できていない。)しかしその存在期間はあまり長くなく、鉱山の衰頽とともに廃止されたものであろう。 (ロ)近江鋳銭司 続日本紀によれば、「和銅元年7月丙辰、近江国に令して銅銭を鋳さしむ」とあるので、その設置されたことは明らかである。しかしその位置はこんにち明らかでないが、鋳型土の出る瀬田山の近傍の辻村・出庭(でんば)村(現粟太郡葉山村)のあたりであろうとされている。 (ハ)河内鋳銭司 続日本紀に和銅2年8月乙酉、河内鋳銭司の官属に禄を賜うことが記されているが、その地は明らかでない。西村真次博士は古市郡誉田郡に永く鋳造業が栄えており、ここは昔の国府にも近くかつ餌香市(えがのいち)にも近かったので、この辺にあったものと考えられると述べている。 (ニ)播磨鋳銭司 続日本紀に和銅3年正月戊寅、播磨国銅銭を献るとあるので、その設置されていたことは考えられるがその他は明らかでない。 (ホ)太宰府鋳銭司 続日本紀に和銅3年丙寅、太宰府銅銭を献るとある。その跡は糸島郡周船寺(鋳銭司の音が転化して地名となった)にあるという。 (ヘ)長門鋳銭司 続日本紀の長門の鋳銭司をして熊毛郡牛島と吉敷郡達理山の銅を採治させ、鋳銭にあてたことが記されており、その位置は豊浦郡長府村にあった。 (ト)周防鋳銭司 これは長門鋳銭司より分置されたもので、その跡は吉敷郡陶村字司家にあり、その設置は聖武天皇(※45代、在位724〜749年)天平9年(※737年)より朱雀天皇(※61代、在位930〜946年)の天慶3年(※940年)まで二百余年にわたり、和同開珎以下歴朝の諸銭が中国・四国・九州などから送られてくる料銅によって鋳造されていたのである。 |
形と名称の由来 |
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支那では秦の始皇帝が天下を統一して、国幣として「半両」銭を鋳造して秦一代の貨幣とし、永く後世の規範たらしめようとした。その銭形を定めるに当って当代の宇宙観である「天は円形にして地は方形なり」という「天円地方」の哲学説に基づいて「外円方孔(※銭の形は丸く、孔は四角)」の銭型を定めた。この銭型はその後永く支那貨幣の基準となった。しかも価値と銭銘とを一致させるため、重量の半両(一斤は十六両)をもって銭銘とした。唐になると、高祖は天下を統一して武徳4年(621)、唐一代の基準銭として開通元寶(※現在、開元通寶と呼ぶのが普通)を鋳造した。この銭銘は当代の碩学(※大学者)欧陽詢(※初唐の書家)が勅命によって選定し、揮毫した。銭銘は「四字」で、その「前二字」は経典の佳句から政治の規範となるべきものを選び、「後二字」の終字は「寶」とすることを決定した。この寶の字を用いることは支那ではその後末世末代まで不変不改の恒例となった。ただしこの四字の配置は時により「上右下左」となり、あるいは「上下右左」となった。 「和同開珎」銭はこの唐の開通元寶にならって作製したものであるから、銭型は「外円方孔」、径は八分、重量もほとんど同じの一銭一分(和同銭は十枚一両、一銭唐銭は十枚一両である)で、周囲に耳(環)をつけ、孔の「上右下左」に謹厳な楷書で「和同開珎」と右回りに各一字を配置した。 次にこの銭銘中前二字の「和同」の根拠については種々に論議され、こんにちなお決定をみていない。その一つは年号和銅の省形であるとし、他の一つは経典の雅語より採ったとしている。そこでこの銭の規範となった唐の銭幣に立戻って考えてみると、当時年号から採択したものは一枚もない。みな経典中の古聖賢の名言より採択されている。してみれば唐銭にならった和同銭の銭銘を年号和銅に採るはずはない。したがって銭銘は、元明天皇(※43代、在位707〜715)が当代の碩学に、大陸から渡来した経典の中から政治の理想とすべき名言を選定させたものと考えられる。するとこの「和同」の語は、 ●孟春天地和同、而万物萌(※孟春は初春のこと。天地和同、草木萌動〈天地和同し、草木萌動す〉(礼記・月令) ●民生敦厖、和同以聴(※〈民生敦厖にして、和同して以て聴く〉敦厖とは風俗のすばらしいこと)(左氏伝・成十六) ●天地和同(呂覧・季春記)上下和同(史記・滑稽・東方朔伝) ●六合和同(※六合とは天地四方のこと)(漢書・吾丘寿王伝) ●万物和同、徳也(※〈万物和同するは徳なり〉(准南子・淑真訓) などのような語典から得たものであろう。 ※「和同」の字句は、天地、上下、万物、六合など自然・人間界の和らぎや調和を意味している。 |
「ワドウカイホウ」か「ワドウカイチン」か |
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銭銘下二字の「開珎」についても古来、学者、古泉家(※古銭家)の間に種々の論説がある。 まず第一の「カイチン」説を唱える人は珎は「珍」と同字にして、このことは延暦15年(796)11月乙未の詔にある「周期撫暦、肇開九府之珎」や園城寺の知証大師円珍が常に「円珎」と署名しているなどを例証として、「珎」は「チン」と読むべきであるとしている。 第二の説は「珎」は「寶」の上下を省いたものだから、「ホウ」と読むべきであると主張している。この説を唱える人のなかにはさらに進んで、「和同開珎」は左右の字画の均斉をとるために「銅を省いて同」としたように「寶を省いて珎」としたものであると説いている。 ところが第三に漢字の文字学的研究の基礎となっている漢の許慎の「説文解字」によると「珎は珍なり、寶なり」としている。そこで「カイホウ」でも「カイチン」でも意義は同じであるからどちらでもよいと唱えている学者もいる。 そこで前にも触れたように、銭幣の終字には必ず「寶」を付すべきことを示し、以後支那の貨幣はほとんどこの「寶」の字をつけている。わが国でも、当時諸般の制度はことごとくこの唐制によっており、貨幣でもその例外でなく、その後の鋳造された万年通寶(※760年発行)、神功開寶(※765年)、隆平永寶(※796年)、富寿神寶(※818年)、永和昌寶(※承和昌寶の誤り、835年)、長年大寶(※848年)、饒益神寶(※859年)、貞観永寶(※870年)、寛平大寶(※890年)、延喜通寶(※907年)、乾元大寶(※958年)など十一銭(皇朝十二銭中の十一銭)がことごとく「寶」となっている。 さらに現存する日本最古の字書である昌住の著『新撰字鏡』によってこの字を調べてみよう。この書は僧昌住が醍醐天皇(※60代、在位897〜930年)の昌泰年中(890〜900)に書かれたもので、当時の(その後、散失する)「一切経音義」・「切韻」「玉篇」などによって古代の字音字義を収録したものである。これによると「珎」は王部に属し、玉部にはこの字ははいっていない。その王部第六十三を見ると次のように記している。 珎 上俗作舟反。美也、貴也、献也、寶也、重也。 とあってこの字には当時では珍の意味はなく、「寶」の字として用いていたことが明らかである。以上のように「珎」は貨幣銘銭の規定のうえから、また当時の古音のうえからみて、「ホウ」と読むべきで、したがって「ワドウカイホウ」と読むべきものであると思う。 |
「記述が細かく、読みにくい点も多かったと思うが、貴重な文献であるのでそのままの形で載せておいた。読み仮名や※印の註は最小限度に止めたので、理解しにくい点もあろうと思うが、別の機会に解説を試みるとともに、最近の研究や学説と対比する必要のある論点等にも触れたいと思う。」 |
| 文責 本会理事 若林 好 |
和銅保勝会だより |
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◎ 平成10年2月23日、平成10年度和銅保勝会定期総会が行われ、和銅案内パンフレットの発行が決定されました。近々印刷発行されます。 ◎ 聖神社入り口の『和銅遺跡』大案内塔が改修塗装替えされました。和同開珎の精確な模型入りです。 |
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