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| 和銅会報 第13号 平成9年2月23日発行 |
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和銅ものがたり(その三) 3.「和同開珎発行前後の時代」 |
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「和同開珎」がどのような経過をたどって生まれてきたのか、その使われ方や価値はどうだったのか、「和同開珎」が日本最初の貨幣とされていますが、その前の貨幣に代わるものは何だったのか、その後の貨幣にはどんなものがあったのか、等々を「日本書紀」と「続日本紀」を歴史年表(この場合は、岩波発行の「日本史年表」)に重ねて照合しながら、年代順に追ってみることにします。 (【岩年】は「日本史年表」、【書紀】は「日本書紀」、【続】は 「続日本紀」に、それぞれ記載されていることを示します。) ●天武天皇3年(674)3月7日 ・対馬(長崎県)から銀が産出する 【書紀・岩年】 (書紀には「銀始めて出でたり」とあり、日本で最初の銀の記録になっています。) ● 天武天皇12年(683)4月15日 ・銅銭を用い、銀銭を禁ずる 【書紀・岩年】 (書紀には、「今後は銅銭を使い銀銭は使うな。但し地金の銀は使ってよい」とあります。これらの銀銭、銅銭の実体は分かりませんが、地金の銀(加工されていない銀そのもの)がその当時からお金の役目を果たしていたのです。 ●持統天皇5年(691)7月3日 ・伊予国(愛媛県)より白銀献上 【書紀】 (書紀にある白銀は「しろかね」と言ったようですが、後に「しろがね」とも読み「銀」の字をあてましたので、この場合も銀と思われます。古代中国では、金物は全部「金」と言い、区別する時に「金」を黄金(日本流にはクガネ・コガネ)、「銀」を白金 (シロカネ)、「銅」を赤金(アカガネ)と言ったそうです。) ●持統天皇8年(694)3月2日 大宅麻呂等を鋳銭司に任ずる 【書紀・岩年】 ●文武天皇3年(699)12月20日 ・鋳銭司を置く 【続・岩年】 (続日本紀では、「始めて鋳銭司を置く」とありますが、その都度、貨幣を鋳造する「ぜにのつかさ」を置いたのでしょう。いずれにしても、和同開珎より前にどんな形にしろ、お金に代わる物を鋳造していたようです。) ●文武天皇 大宝3年(703)5月9日 ・紀伊国(和歌山県)が銀を献上 【続】 ●元明天皇 和銅元年(708)1月11日 ・武蔵国秩父郡より和銅献上。年号を和銅と改元。 【続・岩年】 ・催鋳銭司を置く(2月11日) 【続・岩年】 (催鋳銭司は造幣を監督する役所です。この時、貨幣の鋳造が開始されたということです。) ・和同銀銭発行(5月11日) 【続・岩年】 (続日本紀に「始めて銀銭を行う」とありますから、この日から和同開珎のうち、先ず銀銭が使い始められたのです。なぜ銀銭が発行されたかということは、地金の銀と深い関係があります。〈このことは、別の項目で詳しく説明します〉 ・近江国(滋賀県)に銅銭を鋳造させる(7月26日) 【続】 (近江に鋳銭司が置かれた記録がないので、他の役所に献上させたことになります。) ・和同銅銭発行(8月10日) 【続・岩年】 ●元明天皇和銅2年(709)1月25日 ・銀銭私鋳に罰則の詔が出る 【続】 (銀銭を偽造したり、細工を加えて、利益を得ようとした者にかなり重い刑罰を課することにしました。このことは、新しく発行された銀貨が「地金の銀」に比べて品質が劣っていたことを示すと言われます。だから発行後一年も経たないのに、偽金作りが問題になったのです。) ・銅銭使用の督励の命令が出る(3月28日) 【続】 (この時期の銀銭と銅銭の交換基準ははっきりしませんが、「その物の値が銀銭四文以上は銀銭を用い、その値三文以下は皆銅銭を用いよ」とあります。すぐ後の銀銭廃止に連なる命令と思われます。) ・銀銭廃止。銅銭だけを流通貨幣とする(8月2日)【続・岩年】 ●元明天皇和銅3年(710) ・太宰府(福岡県)銅銭を献上(一月一五日) 【続】 ・播磨国(兵庫県)銅銭を献上(一月二七日) 【続】 (近江と同じで、太宰府も播磨も鋳銭司が置かれた記録はありませんが、銀産出が少量なのに比べ、銅銭流通に必要な銅の供給量の見通しがついたことのあらわれと考えられます。) ・再び銀銭の使用を禁止(9月18日) 【続・岩年】 (地金の銀→銀銭→銅銭という循環での交換比率の決まり方の根強さを示しています。) |
黒谷地名考−由来と現況− (その四) |
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『大畑』 土地は人々の暮らしに深い関わりがありますが、昔は土地をどのようにして所有できたのか、大畠紹介を機に一寸考えてみたいと思います。 天平15年(西暦743年)と言いますから奈良時代のことです。政府は「墾田永世私有令」という法律を出しました。つまり開墾した土地はいつまでも自分のものにしてよいというわけです。したがって人々は開墾の意欲が盛んになりました。土地はこのようにして自分のものになりました。 大畠は現在、大下区の小字として厳存している地名です。皆野町から信号機のある木毛の交差点を過ぎて黒谷地内に入り、約二百米程進んだ国道140号線左側沿いに自動車販売のディーラーがあります。そのディーラーの裏に、注意していても気付かないような小さな澤(堀)があります。更に三百米位進むと、東晶院の裏手に川幅約五米位の下川があります。いすれも国道下を横切り荒川へと流れております。その沢と下川の間、荒川の右岸から東の山麓までの約一万六千五百平方米(約一町七反)の一帯を大畠と言います。 昔山林だったこの土地は(昭和三十年頃まではその名残がありました)鉢形城城主北条氏邦の家臣だった落人内田縫之助(またの名を伊右衛門)が開墾し、この地を耕して静かに余生を送ったと言われるゆかりの地です(古老による伝承)。山又谷の多い秩父の里を一鍬一鍬丹念に開き、五町歩もあろうかという大畠は当時広大の感一入だったに違いありません。 内田家の子孫は今なお、この大畠の北の小高い一隅に住んでおりますが、そこから見渡す土地は大変広く見えます。故に人呼んで何時しか大畠の地名にまで発展したものと思われます。今は国道や鉄道も走り、家屋も増え、賑やかな所となりました。然し佇む場所によっては、まだまだ往時を偲ばせる眺望はすばらしく、荒川にかかる和銅大橋、そしてその向こうの山々の風景は絶佳です。 |
和銅保勝会だより |
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故・福嶋好男先生収集の化石 和銅保勝会へ寄贈 福嶋好男さんは、理科の教師として永年にわたり数多くの化石の他、古代の遺物類を収集し、秩父地方研究の貴重な資料を残されましたが、不幸にも病魔に冒され五十五歳でご逝去なされました。先生のご遺志を活かしていただけたらと、この度、奥様よりその全収集物を本会にご寄贈いただきました。目下小幡喜一先生に鑑定いただき、陳列展示して皆様に見ていただけるよう準備中です。 和銅鉱物館の整理進む(感謝の報告) 現在、聖神社境内にある「鉱物館」には、埼玉県指定文化財『蕨手刀』をはじめ沢山の貴重なものが陳列されています。中でも、三四九点(昭和四五年・一九七〇年現在の台帳による)の鉱石類には、和銅遺跡の側面的資料として価値高い鉱石が含まれています。その分類整理の大仕事を、専門的立場から奉仕的に進めて下さっている方々を紹介します。 小幡喜一先生(豊岡高校)、阿比留 稔先生(川越市史編纂室)、市川 孝先生(川越西高校)、醍醐裕史先生(川越商業高校)の四人です。日曜、祭日をまる一日使って、全くの無報酬で、鑑定し、カードによる分類整理にお骨折りいただいています。昨年四月から始めていただいて、ようやく完了目前というところです。学問的評価にも充分応えられ、系統的に見学もできる工夫もしていただきました。鉱物館の陳列台が、又、新しい魅力をもって、充実した姿を見せてくれる日も近づいてきました。 |
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