和銅会報
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和銅会報 第12号 平成8年12月1日発行

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和銅ものがたり(その二)

和同開珎−日本最初の貨幣−
 日本の政治や文化の歴史の上で、和同開珎の発行は大変重要な意味があります。それだけに長い間、多くの人々がいろいろな研究を重ねてきていますが、まだはっきりしないところや、意見の一致しないところもあります。それらの研究を参考にし、また残された記録をたどりながら、和同開珎のいろいろな面を見ていくことにしましょう。


1.和銅からつくられた和同開珎
 先ず「和銅」と「和同」の文字が違う点に注意しましょう。「和銅元年正月十一日、武蔵国秩父郡が和銅を奉る」と続日本紀は書いています。又「自然に作成れる和銅出で」「慶雲五年を改めて和銅元年とし、御代の年号と定め賜う」ともあります。このように、献上された銅のことや改められた年号は、間違いなく「和銅」の文字になっています。奈良時代に書き残された文書や墓誌・木簡の年号は、調査された限りに於ては、すべて「和銅」とかかれているそうです。
 さて、お金は時計廻りと同じ方向に「和同開珎」となっていて、一つの例外もありません。このように、お金の名前の「和同」は、素材になった銅とも年号とも別の考え方によってつけられたと思われます。(お金の名前のことは、また後でお話しします。)


2.和同開珎の発行された時代
 大化の改新(645年)以来、当時の先進国であった唐を中心とする大陸文化が日本に入ってきました。中でも青銅器文化にあこがれていた時に、純度の非常に高い「和銅」が発見・献上されたことが大変な喜びであったことは十分想像することができます。続日本紀には、これより前も、文武天皇の2年(698年)ですから和銅より十年も早く因幡国(今の鳥取県)や周防国(今の山口県)からも銅鉱石が献上された記録がありますが、貨幣を鋳造した記録はありません。ただ、翌文武天皇の3年(699年)に「始めて鋳銭司を置く」とあるだけですから、続日本紀による限り銅貨が作られたかどうかは判りません。それが、和銅元年1月11日に銅が献上されてからわずか半年後の7月26日には、「近江国(今の滋賀県)をして銅銭を鋳しむ(鋳造させた)」とあり、8月10日には「始めて銅銭を行う(使用させた)」ことになったのです。

 ところで当時の政治や社会情勢を見てみますと、天皇中心の中央集権国家の確立を目指していた文武天皇が若くしてお亡くなりになり、その母君であります元明天皇(女帝)が即位されました。当時は皇位継承をめぐって不安定な政情が続いていました。そこで、人心一新と皇威発揚を図るために藤原宮から平城宮へ都を移す計画が実行されたのです。その造営の費用や賃金の支払いの必要から「和同開珎」という貨幣が発行されたというのが、一つの大きな理由と考えられます。

 その他にも、従来貨幣として流通していた稲の束や布の不便さという問題もありました。一束の稲や一尺の布というのでは持ち運びが大変だし、品質の違いもあって、一定の価値が保てないので、価値の基準になる金属貨幣ができれば非常に便利になるという期待が持てたのです。このような種々の必要性があって和同開珎は生まれました。(以下次号)


【参考事項】
1.貨幣博物館
 日本銀行金融研究所とも言って、東京都中央区日本橋本石町(地下鉄三越前駅から三分)の日本銀行分館内にあります。古今の貨幣はすべて集められ展示、解説されています。もちろん、和同開珎も陳列されています。この会報の題名の上にあるのが、貨幣博物館陳列の実物大写真です。本号の記事の中にも貨幣博物館見学の折り、そこで触れた資料なども参考にした部分があります。機会があったら一度は訪れる価値がある博物館です。

2.「和同開珎はなぜ発行されたか」
(新視点「日本の歴史・古代編」新人物往来社発行 所収)著者は古代銭貨の研究者栄原永遠男(さかえはらとわお)で 、和同開珎をはじめ、貨幣の流通に関する研究書もあり、実際に和同開珎が鋳造されたという史実に基づく京都の「銭司」(相楽郡加茂町)の発掘調査の指導にも当たっています。銭司を訪れ、地形・地勢、「鋳銭之遺蹟」の碑の建っている風景などを見、黒谷と同じように「和銅」という地名が残っているのを知ったりすると、古代がぐっと近く感じられます。この論文は、「和同開珎」をより正しく知る上の最新の資料と言えます。


黒谷地名考−由来と現況− (その三)
「お滝」
 水源を銅泉と言い、沢の名を銅泉堀(銅銭堀)と言い伝えられてきた和銅沢は、聖神社の鳥居前を流れる古い歴史と伝統を秘めた由緒ある清流です。(地元の人の多くは「どうねんぼう」と呼んでいます。)

 何時しか和銅沢と呼ばれるようになったその沢に「お滝」と称するところがあります。そこには紛れもなく滝があります。しかも上流に一つ、その下流に二十米程はなれて一つ、合わせて二つの滝が相俟って見事な景観を造っています。

 土地の人々は上流の滝を上のお滝、下流の滝を下のお滝と言って、伝統的に親しんでいます。

 上流の滝は落差約三米あり、轟音とともに滝壷へ飛沫を上げて水を落とす様は正に男性的です。下流の滝は傾斜角約三五度の岩肌で八米程水を運び、流麗に滝壷に水を落とす女性的な滝です。

 滝が水と深い関わりがあることは申すまでもありませんが、山岳信仰では水が信仰の対象とされていたようです。当時の人が、滝に「お」を付けて「お滝」と呼んだのも、水への崇拝と滝の神秘さに感動した所以であると容易に想像できます。お滝はその尊敬語がそのまま現在に伝えられ、地名にまで発展したものと思います。

 平成三年度の治山事業によりコンクリート護岸工事が施されましたが、お滝のところは両岸の岩がしっかりしているので施工が除外され、昔日の面影を残しています。そして今尚土地の人々の一寸した憩いの場所として、夏は避暑に水遊びに、春はのんびり滝音やせせらぎを聞きながらメダカ掬いやカニ取りに、秋には紅葉を楽しみ、冬には氷柱鑑賞にと愛されています。しかし、文化とか開発とかの名のもとに上流の森林伐採、宅地造成等が多くなったせいか水枯れの日が多くなり、水の汚れも目立つようになって、かつての荘厳な滝の姿を見ることは少なくなりました。

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