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| 和銅会報 第20号 平成18年8月24日発行 |
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| 『秩父から和銅奉献1300年』記念事業 準備委員会始動 | ||
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武蔵国秩父郡より和銅が献上されたのは708年、和銅元年と改元されてより再来年(2008)で千三百年になります。記念すべき郷土の誇りをあらためてかみしめ、歴史認識も新たに、未来へ向けて更なる秩父の発展を期そうと、今、全市を挙げて記念事業の策定への取り組みが始められています。 黒谷に残る「和銅露天堀り跡」を起点として、遺跡の保護顕彰運動に長い歴史を持つ秩父市和銅保勝会を軸に、準備会が発足したのは昨年の秋でした。 爾来、数回の協議を重ね、遺跡の存した旧原谷村、現在の秩父市大野原、黒谷の全地区、全住民一丸となって、秩父市役所関係各部局の指導支援の下、「和銅奉献1300年記念事業 和銅保勝会準備委員会」が、ここに活動を開始することになりました。市に設置される予定の実行委員会への (1)構想提言のとりまとめ (2)地元の協力態勢の確立 を目指して現状改善作業も含めての遺跡顕彰活動、斬新にして創造的な歴史文化伝承基盤になる諸イベントの構築を考究する委員会として期待されております。 七つに分けられた委員会の協議部門は次のようになっております。
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| 保勝会ごよみ | ||||
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■平成18年6月22日(PM l:30〜、聖神社) 和銅奉献1300年記念事業準備委員会 61名出席。 会議前、神社宝物及び鉱物館内見学 ■6月26日埼玉県神社庁設立60周年記念大会(さいたま市・神社庁)にて 黒谷獅子舞保存会が県神社庁長 薗田稔氏より表彰を受ける。 若林獅子舞保存会長出席 ■6月28日(じばさん) 秩父観光協会総会 若林会長出席 ■7月5日(秩父宮記念市民会館) 彩の国秩父地域観光協議会総会・観光研修会 若林会長出席 ■7月24日(PM l:00〜、下黒谷公会堂) 和銅奉献1300年記念事業準備委員会
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| 「ワドウ」事始め 〜 チンホー論争のこと 〜 若 林 好 | ||||||||||||||
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1.年号は「和銅」で、銭文は「和同」 最も基本的な事実から確認しておこう。武蔵国秩父郡で銅鉱石が発見されて朝廷に献上された。露天掘りによる純度の高い自然銅であった。当時の言葉では、「熟している」とか「やわらかい」ことを「ニキ」(時代が下がると「ニギ」となる)と言って「和」の字を当てた。これが、熟していて柔らかく割合簡単に鋳造できる銅で、「続日本紀」に言う『自然に成立れる和銅』である。 その頃、日本の国で一番欲しいものの一つであった和銅が出たことは大変おめでたいことだと喜んだ朝廷が、和銅にちなんで改めた年号が、「和銅」だったのである。 記念に発行されたとされるお金は、年号と違って「和同開珎Jと名づけられた。この「和同」という貨幣の名前(銭文)の「珎」が、実は「チン」か「ホウ」かの読み方と大きく関わって長い間の論争となっているのである。 『和銅が献上され、和銅と改元された年に造られたお金だから、「銅」の字を略して「同」にし、当時多く使われていた唐のお金の「開元通寳」にならって、寳の1部から採って略字の「珎」にして「和同開珎」という名前にした。寳の略字である から「珎は当然「ホウ」と発音し、「ワドウカイホウ」だ』というのが江戸末期から明治にかけて普通の読み方となって長く続いてきていたのである。然し、今は「カイチン」が大勢となっているが、そのことの解明の前に考えなければならない大事な問題が二つある。「銭文と年号」と「漢字とその略字」の問題とである。2.銭文と年号 『「和同は、年号の「和銅」を簡略にしたもの』という考えは、貨幣の名前には年号を入れるという前提からきているように思われる。そこで当時鋳造された貨幣を調べてみる。中国では非常に古く紀元前3世紀頃から丸い形に四角の孔(円形方孔という)のある銭が造られており、宋の孝建元年(西暦454年)には「孝建」という銭が鋳造された。これが年号を使った最初のものと言われている。唐の乾封元年(666年)「乾封泉寳」というのも造られた。 ところが日本の「和同開珎」の手本になった「開元通寳」は、武徳4年(621年)の鋳造であって年号には全く関係のない貨幣である。その頃、中国を除くアジアの国々の中で貨幣を造ったのは唯一日本だけだったが、日本では和銅元年(708年)の「和同開珎」をはじめとして、以後150年の間に12種の銅銭が造られたのである。これを「皇朝12銭」というが、その銭文と鋳造年号をまとめてみる。(銭文通りの漢字にしてある)
中国の古典にある「天地和同」「万物和同」「上下和同」というような使われ方で、「和らぎ」とか「調和」の意味があって、よいことの前兆を表す言葉としての「和同」を銭文にしたというのが一般的な見方であるようだ。その時、年号の「和銅」と同音であることも、又よいことだという考え方もあったであろうが、かえってそれが混乱を生むもとになったと言えるようである。 3.「寶」「珎」の本字と異体字 和同銭に関して一番問題になる文字は「寳」と「珎」である。というのはこの二字をめぐって「カイチン」説と「カイホウ」説に議論が分かれるからである。そこで、この二字の履歴をまとめてみる。 寶 (1)A 寶 B 寳(AとBで、ウかんむりと貝の間の字形が違うことに注意) (2)寶(本字)→寳(異体字)→宝(略字) (→印の順に略されていったことに注目) (3)意味…大切にする貴重なもの。たから、金銀、真珠の類。 珎 (1)珍(本字)→珎(珍の異体字)(略字はない) (2)意味…貴重。たやすく得られない、滅多にない。 4.「カイチン」か「カイホウ」か 現物としての銭貨「和同開珎」は、日本以外にまで及んで各地から多量に発掘、発見されている。その科学的研究の結果、質量分析という方法によって、「和同開珎」は間違いなく和銅の時代に日本で鋳造されたことが証明されている。然し、読み方(発音)や銭文の意味や由来になると、書き残されたものの分析や、周辺の諸事実を総合した多くの研究によるより他に確かめようはない。そこで、古今の学者、研究者の研究成果をもとにしてカイチン説とカイホウ説の大まかな言い分を考察してみることにする。 (ア)「カイチン」説 和同開珎の「珎」は、「珍」の異体字という立場にたっている。だから、音としては当然「チン」となると主張する。確かに漢字のでき方から見て、Aの寶と関連づけられる点を見出すことはできない。「カイホウ」説のいうBの寳の字の一部「珎」を抜き出して略字としたという意見は漢字の出来方を無視していることになる。珎の形を含む寳は既に略されて寶の異体字となっているので、異体字の略字を想定することは、どう見ても理屈に合わない。 ところで、カイチン説の裏付けとなるものとして、正倉院の古い文書にある「国家珎寳」という文字がよく引き合いに出される。珎が寳の略字だとするならば二つ重ねるのに別々の「ホウ」の字をつかうという奇妙なことになるので、これは「国家チンホウ」であって、珎は珍の異体字として当時常用されていたという事実に基づく「カイチン」説の有力な資料である。
(イ)「カイホウ」説 カイホウ説は、当時の貨幣の銭文には殆どBの寳(ホウ)が用いられているということから見て、寳に含まれる「珎」だから和同開珎の珎も他の銭文の寳と同じで、珎を寳の略字と考えているのである。 もう一つは、和同の年号と銭文とを関連づける考え方だ。和銅の銅の金偏を取ってしまって「同」とし、寳の珎を生かした略字「珎」にして、「和同開珎」としたと主張する。だから音は「ワドウカイホウ」であると言う。 このことは、和同開珎の約50年後に発行された「神功開寳」とも連動していると言う。神功開寳が発行された時は、和同開珎がまだ使われていたので、和同開珎の銭文の意味も十分知ったうえで、神功の「功」を略さないのだから寳も略さずに,功も寳も本字そのまま使ったというのである。なお、当時は、同じ意味ならば字の形は異なっていても、同じ音で読む習慣はそう珍しいことではなかったから、寳と同じ珎を「ホウ」と発音してもおかしくはないとしている。 カイホウ説の古い資料では、東大寺伎樂面の「天平勝珎」の文字がある。明らかに年号の「天平勝寳」のことである。年号の字を書き誤ったとは考えられないとすると、「珎=寳もあながち考えられないことではないとするものもある。然し、寳を珎に置き換えた例は今までにこの一例しかないので、「うっかりミス」という考えの方が妥当のようである。 5.大勢となっているカイチン説 当時に残された資料の中で、年号に「和同」を使ったものは一つもないこと、又、珍を珎とした事例が多くあることなどから見て、さらには漢字そのものの〔寶→寳→宝 珍→珎〕の流れから見て、カイチン説が定説になりつつあることは事実である。NHKをはじめ、最新の歴史書、歴史辞書等の出版物は殆ど例外なくすべてカイチンで通している。学校の歴史の教科書を見ても、中学校ではカイチンと仮名をふり( )でホウと付け加える「カイチン(ホウ)」型であり、高等学校でも6種の中、カイチン(ホウ)型が5、カイチン、カイホウ型が各1となっていて、学校教育の中でも大方はカイチンに統一する方向にある。 【結語】 「チン」「ホウ」論もさることながら、飛鳥池遺跡からの富本銭が、従来の富本銭説に大きな波紋を投げかけている今日この頃である。 そんな時、わが埼玉県の郷土研究誌である「埼玉史談」誌上に、既に昭和13年(今から68年前)入田整三氏は「和銅と和同開珎銭」という論文を寄せて、「和銅元年、秩父郡献上の銅は自然の熟銅であり、和同開珎はわが国最初の金属貨幣であり、銭文和同は年号の和銅とは無関係であって、開珎の珎は寳ではなく従って「チン」と読むべきである」と、詳しい論証を挙げた上で喝破している。この洞察力にはあらためて敬服するものである。 さらには、現在解明の進んでいる富本銭と和同開珎鋳造時期をめぐっての深い関わりや接点を、既に半世紀以上の昔に、現今の論究に肩を並べるかのような卓見もうかがえることは驚異に値する。 【参考文献】 日本銀行金融研究所 「貨幣博物館」(日本銀行金融研究所・平成3年) 栄原永遠男「日本古代銭貨流通史の研究」(塙書房・平成5年) |
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