和銅会報
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和銅会報 第19号 平成11年3月5日発行

第18号第19号第20号

故(ふる)きを温(たず)ねて−和銅露天掘り跡−
 奈良飛鳥池から「富本銭」が出土したという発表以来、稍、黒谷に異変が起きている。寒気の厳しい中にもかかわらず和銅遺跡の見学に訪れる人が例年になく多い。あらためて「和銅改元」や「和同開珎発行」等、歴史にゆかりのある「黒谷」を再確認したいという歴史探訪の意欲をかきたてられたというのであろう。さらに、地元近辺でも、歴史の勉強で習ったことはあるが、直接目にしたことはないという人々が意外に沢山いたらしい。そんな方々のことも考えて、秩父市和銅保勝会は、緊急特集「富本銭と和同開珎」(和銅会報第18号)を発行したところ、かなりの関心を寄せていただき、ありがたく思っているところである。「どの貨幣が先か後か」、「通貨としての役割」などは今後の解明に俟つよりないが、それだけに、日本史の中の「和銅」と、その産出地・献上の地とされる「黒谷」の現状と歴史的経緯を正しく知ることが一層大切になってきたと言える。

 そんな意味あいもあって、露天掘り跡整備の始まった頃の苦労談を地元古老の大浜氏に、又、現状を文学的表現を通して感じていただけたらと、俳句結社「天為」の方々の作品を発表していただいた次第である。(今号は、既に編集済みでしたが、富本銭出土に伴う速報発行上の都合から大変遅くなりましたこと、資料提供の方々に対し深くお詫び申し上げます。)

老爺の一服話−和銅古跡の碑について− 大浜祐一
和銅古跡の碑 慶雲(けいうん)の太古、当地に自然銅が発見されたことにより管仁田(すがにた)に聖神社が祀られたことはよく知られているところでありますが、永い間には色々な事があったと想われます。栄枯盛衰は自然の摂理とでも申しましょうか、お聖様も同様に盛衰の時代を経て今日に至ったと思われます。

 古老の話によりますと、徳川四代将軍家綱の時代(寛文4年・西暦1664年)に建替えられた社殿は豪華なもので、鳥居に書いてあった聖神社の聖の文字は金色に輝いて、時々前を通る荷付け馬は太陽の反射で驚いてとびはねたそうです。今から約200年前(享和2年1802)惜しくも火災の為、焼失したと聞いて居ります(文化4年再建・1807)。私共が知る様になった大正の頃は粗末な社一棟で、明治8年村社の指定を受けられても社務所も鳥居もありませんでした。祭事一切増田寶治さん(今の神官増田忠三氏祖父)宅で営まれておりました。大祭の日は各地区の総代行事が集まり、殿地(どんじ)裏のお滝から清水を汲み上げ、最後の直会まで増田家を煩わせて居りました。神社の宝物も増田家と当時の神職北谷戸家の各々の私邸に保管され管理されて居りました。

 このような状況下、古跡は置き去りにされておりましたが、心ある何人かの人達は折々社の整備と和銅遺跡の保存について話し合われ、小さな声として温存されておりました。

 当時黒谷地区の指導的立場に居た福島金平(和銅区・「道下」駿雄氏の曾祖父)、田口助次郎(黒谷区・「破風屋」徳行氏の曾祖父)さんの二人が私共に来たり、父鷹次郎が出かけたりして幾度か保存会について下話をされ、増田寶治さんを加えて町田嘉之助村長に進言しました。どんな筋書きで進められたかは存じませんが、大正11年2月和銅古跡保存会は結成されました。

 恰(あたか)も大正11年6月25日、大正天皇第二皇子雍仁(やすひと)親王殿下が新宮家(秩父宮)御創立、その慶事を記念して碑建立が決議されました。当時埼玉県町村会において県の三羽鳥(田中、森田、町田)と謳(うた)われた村長町田嘉之助氏の計らいで埼玉県知事の揮毫を戴き和銅開寶古跡之碑建立の運びとなったと聞いております。そして、同年11月26日、秩父宮様が秩父に御成遊なされましたのを覚えております。
 
 大正の末期は近代化への移行する過渡期であり、各地でいろいろな事業が行なわれておりました。原谷村においても役場の改築、村報の発刊、村紋章の制定等事業が目白押しでした。そんな事情から記念碑建立の費用は村からの出費でなく、個人の浄財によるものでしたから、予算も少なく、碑の運搬建設も労力奉仕で行なわれました。石屋から出来上がりの報告を受け、馬の引く運送車で殿地の庭まで運んで貰い、後は人肩運搬です。今と違い電気や機械に頼れず、鉢巻きと掛け声で急坂を持ち上げる作業は大変なものでした。保存会とどんな話し合いで地元の人達が労力提供をすることになったかはわかりません。とにかく下黒谷の人達が、あっちこっちから総勢20数名集まりました。増田寶治、大浜次郎吉(大下区清吉氏の父)、逸見儀寿(大下区・「新家」直弘氏の祖父)、吉岡金太郎(大下区・利恭氏の父)、大浜鷹次郎、大浜唯一(下山・「隣」喜八氏の祖父)、大浜武作(下山・「向」武利氏の祖父)、長島常太郎(下山・「背戸平」忠儀氏の父)、浅見甚蔵(和銅区・健二氏の祖父)、福島九平(和銅区・「西河原」敏雄氏の祖父)栗島倉吉(和銅区・「沢向」常雄氏の父)、内田嘉作(和銅区・福吉氏の父)、杉田栄作(黒谷区・「お茶屋」徳冶氏の祖父)、福島銀三郎(黒谷区・「おはく」義雄氏の父)さんなどは今も記憶に残っております。

 当日午前中、二手に別れ、一方は道作りの草刈り、邪魔物、木の伐採除去、一方は殿地の庭から山の麓まで担ぎ上げの仕事でした。先人の知恵とでも申しましょうか、担ぐ方法はくずれ井型の八人かつぎ、いわゆる八天(はちてん)でした。くずれ井型は御輿(みこし)の担ぎ棒の様に支点を固定しないで井型状に担ぎます。これは坂道や凸凹(でこぼこ)の多い道路では高い所に入った時、重みが一人の肩のみかからない為と、担ぎ棒が自由に動けるように工夫されたものです。午前中、山麓まで担ぎ上げ、昼食は全員私共まで来て貰いました。母の采配で私が庭に藁筵(わらむしろ)を敷き大鍋を据えたりの小間使いをさせられました。腹ごしらえが出来たからいよいよ挑戦だと、山麓から設置場所まで引き上げ作業にうつりました。当時祝山は緑深い老松が点在して程良い景観を成しておりました。

 私共に大きな滑車がありました。年寄りはそれをセミと呼んでいましたが、それを持ち出し、又馬の荷付け縄等を集めて露天掘り跡の上方部の松の根本に括り付け、碑がいたまない様、即席の簡単な木橇(きぞり)の上にのせ、中間のセミを通して多人数で引き上げました。近隣の婦女達が観る中、鈴木惣五郎さん、浅見甚蔵さん等に威勢の良い粋な音頭が谷間に谺(こだま)したのは今でも思い浮かばれます。(使用したセミはこわれ、かぎの部分だけ私の納屋にあります。)

 この様にして和銅古跡の碑は建立されました。時に大正11年秋のことでした。高さ5尺(1.5米)巾2尺1寸(約64糎米)の碑の表に「和銅開寶之古跡」「埼玉県知事従四位勲三等堀口秀太郎書」と書かれ、裏面に「大正十一年十月建立」と刻まれております。近年、市及び和銅保勝会等の活動に碑が及ぼした力は甚大であります。

 (筆者 大浜祐一(すけいち)氏は、下山(しもやま)の大浜定男氏御尊父。原谷村時代の役場の書記として永く勤められ、現在は聖神社の氏子名誉総代をなさっております。明治38年10月16日生まれの93才で、今なおご健康で、元気溌剌としていらっしゃいます。この記事は、「老爺の一服話」と題して、話の内容から、用字まで、翁ご自身で書かれたままのものを、一切手を加えず、活字にしました。記憶力の素晴らしさ、言葉の使い方、豊富な漢字力等々、驚嘆すべきものがあります。)

「和銅」を謳(うた)う
 9月20日、まさに秋晴れの好天の下、俳句結社「天為」の秩父句会−9月例会・和銅山、聖神社吟行−が行なわれました。小西玲香氏を先導に1行13名を黒谷駅に迎え、聖神社に案内し、宝物拝観の上、和銅遺跡の概略を申し上げ、吟行に移っていただきました。翌日に、早速お送りいただいたのが、次に掲げる作品です。あらためて遺跡周辺のたたずまいが目に浮かぶ秀作です。「天為」は、現文部大臣有馬朗人氏が主宰する1300人を擁する俳句結社です。
一葉落つ和銅淘(よな)げし沢水に
露草の露瑠璃(るり)なせり和銅沢
あかがねを洗ひし沢や鬼ぐるみ
沢鳴りに実もとびさうな杜鵑(ほととぎす)
稲の葉のうらへうらへと蝗(いなご)かな
露天堀跡へ急峻(きゅうしゅん)おけら鳴く
天狗茸(てんぐだけ)見ぬ悔い残し和銅坂
露天堀奈落(ならく)の底に残る虫
和銅山囲む棚田も豊の秋
このあたり銅座の跡や臭木(くさぎ)山
胡桃(くるみ)落つ和同開珎モニュメント
さやけしや和銅の蜈蚣(むかで)むつまじく
文子
佐知子
知子
正矢
順一
小夜
久男
きみ代
照葉
秀仙
芳子
玲香

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