和銅会報
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和銅会報 第16号 平成9年11月20日発行

第15号第16号第17号

昭和初期の「和銅遺跡」―金山をめぐる問題―
 昭和5年創刊の「埼玉史談」という雑誌がある。当時の県立図書館内の「埼玉郷土会」が発行していたものである。「和銅」関係の論文も二、三収録されているが、各巻末に小さな案内・報告記事があって、その頃の「和銅遺跡」が学術研究者や歴史愛好者にとって、どのような存在であったかを窺わせてくれていて、大変興味深い。更に、貴重な情報も提供してくれている。つまり、昭和の初期は、和銅遺跡(と言っても、殆どが金山の採掘跡だが)の再興、再発見の時である。今号は、それらの記事を紹介しながら、「和銅遺跡」の「昭和の歩み」を振り返ってみることにする。


 先ず、昭和8年1月号の『秩父に於ける第一回和銅祭の催』という報告から見ていこう。(以下、引用文の旧漢字旧かなづかいは原文のままです。)

【日本弘道会秩父支會では、本年の一月十一日が恰も和銅呈瑞千二百二十五年に相當するを以て往年の盛儀を奉賛追憶する意味から、縣立秩父高等女学校に於いて第一回和銅祭を開催した。尚同会長鹽谷俊太郎は是を永く記念せんが為、元明天皇の御詔を續日本紀より摘記し、之に奉祝唱歌三章を併せて繪葉書に製り頒布した。】

 1月11日は言うまでもなく和銅改元の日である。この日を祝って第一回和銅祭が行われたというが、第二回以降はどうなったのであろうか。奉祝唱歌とはどんな歌だったのか。頒布された絵葉書を現在保存している方はないであろうか。弘道会という団体は判らないが、会長の鹽谷俊太郎氏は、年代は未確認であるが、埼玉縣史蹟名勝天然記念物調査委員会委員・縣社寶登神社社司であった方で、今宮神社宮司塩谷啓山に間違いない。いずれにしても、昭和の「和銅遺跡」が世間の耳目を集め始めた証拠である。


 次いで、翌昭和9年7月号は「秩父郡原谷村和銅鑛の採掘」という記事が載る。

【今を去る千二百有餘年の昔、元明天皇の和銅元年に、秩父郡より和銅即ち自然銅を献上し奉った事は歴史上頗る有名なことであるが、此の由緒ある産出地 秩父郡原谷村黒谷「和銅山」は現今では全く廢鑛として顧られない状態であった。然るに今般同郡皆野町の太田福松氏は当時の採掘場の古跡を発見し、同所の鑛石を茨城県日立鑛山に送って分析を依頼した結果、頗る良質と認められたので、近く採掘を開始する豫定であると云ふ。】

 記事の内容は、不正確なところや明らかな誤りがあるが、「黒谷」と「和銅」がかなりな社会的関心を呼んでいることはよくわかる。「和銅山」と「金山」を混同するというところなどは大変お粗末である上に、太田口福松氏を「太田氏」とし、しかも皆野の人にしてしまっている。
 言うまでもなく、自然銅の露天掘跡が残っているのが和銅山で、採掘場の古跡などのあるのは、別の尾根の「金山」である。黒谷の太田口福松氏がこの二つの山を含めた一帯を踏査し、確かに各種の発掘・発見をしたが、果たして採掘開始の意図があったのであろうか。


 次いで、昭和10年1月号には「秩父郡原谷村にて溶鉱爐発掘」という記事がある。

【過般秩父郡原谷村大字大野原地先黒谷金山の山林開墾中粘土製楕円形の直径約三尺・深さ二尺を有する溶鉱爐と、高さ二寸、重量十八匁の鑄銅佛像とを発掘した。同所は昨年十二月にも既に溶鉱爐が発見せられた所である。】

 というもので、何か重複して書かれているような記事であるが、金銅佛の発掘は事実である。


 更にすすんで昭和10年になると「第六十五回秩父郡秩父町・原谷村見學」という雑報記事が出てくる。一行十五、六名が瑞岩寺山門前で記念撮影をしているが、マント、外套、中折帽などの恰好で、髭をたくわえたりした立派な紳士揃いである。原谷から見学が始まっていることを、記事は伝えている。

【二月十七日、早朝から曇りがちの重苦しい天候を案じながら、車中を共にした小川幹事等と秩父線黒谷驛で別れて外に出ると、鹽谷幹事を初め会員諸氏地方有志の諸君に迎へられ、愈々黒谷村の銅冶金阯を目指して進む頃には、幾分か晴れ間が見え初めた。驛から約十町、秩父町に至る縣道の北側に連なる山峯に冶金阯があり。其の山麓に之を管理して居る町田寅之助氏が居住しているので、先づ同家に到って發掘当時の記録やら測量圖、又遺物の溶鉱爐の斷片及び鑄銅の虚空像菩薩丈二寸像等を拝見し、発見者大田口氏と町田氏に先導され一同揃って登山した。此の冶金阯に関する詳細は本文に記載したので、参照願ひたい。尋で見學を終って下山し、町田家で茶菓を馳走になり、一同車を馳せて次の瑞巌寺へ向ふ。】(折を見て「冶金阯の詳細記事」は、紹介したい。)

 ということで、瑞岩寺から秩父神社へ一行は廻って見学を終了している。
 ちなみに見学参加者は、稲村坦元、渡邊刀水、鹽谷俊太郎、堀口蘇山、藤野三吉、大塚仲太郎、饗庭喜蔵、皆川月華、香川瑞鳳、太田口福松、奥田時之助、中島秋月、菊池山哉、町田寅之助、山本一信という錚々たる顔ぶれで、相当の学者先生も入っているようである。
 いずれにしても、この三篇の記事に共通しているのは、和銅という言葉が使われているいないはともかくとして、「金山」のことを指しているということである。この当時、和銅採掘露天掘跡がどのように理解、認識されていたかは、これらの記事で見る限りでは殆どわからない。地元の人々も、見学者も、銅冶金跡にのみ関心が集中していたと思われる。
 最近では、多くの見学者が「和銅採掘露天掘跡」を訪れるようになったが、まだまだ「金山」と混同する向きも少なくないようである。時の流れも、半世紀は悠久の歴史の中ではごく一瞬なのかと思わずにはいられない。

あゆみ この一年 (平成九年・秩父市和銅保勝会)
2月6日(木)和銅保勝会会計監査会
23日(日)和銅保勝会総会(副会長岩川福一氏の辞任に伴い、新副会長に飯島勝政氏を選任)
23日(日)和銅会報第13号発行
3月19日(水)和銅遺跡撮影案内随行(テレビ埼玉)
24日(月)和銅露天掘跡案内表示板設置場所下見
4月20日(日)美の山「山開き」
23日(月)宝登山神社宮司 横田 茂 氏他二名聖神社参拝並びに御神宝等拝観(案内・説明)
5月8日(木)和銅露天掘跡案内表示板設置
18日(日)美の山観光道路清掃活動
28日(水)和銅露天掘跡案内表示板設置(移設)
6月4日(水)和銅露天掘跡見学道路改修工事現場下見(同行・案内)
29日(日)古代稲田植え(和同開珎を型取り、「わどう」の文字入り)
7月24日(木)団体見学(案内・説明)
8月5日(火)和銅会報第14号発行
31日(日)草刈りと清掃作業(美の山登山道、和銅遺跡、聖神社周辺)
9月19日(金)原谷公民館の郷土学習講座で、太田口八郎会長「和銅遺跡について」の講義
30日(火)和銅会報第15号発行
10月8日(水)秩父市活性化委員会島田憲一会長以下役員一行和銅遺跡視察(案内説明)
11日(土)三輪鉱業所 堂本昭彦氏、福島宗平氏 和銅鉱物館、和銅遺跡視察調査(地質学・鉱物学的観点より指導助言をいただく)
31日(金)東京大学名誉教授山口梅太郎氏、三輪鉱業所社長石井恒二氏和銅遺跡視察(案内説明)
11月6日(木) 和銅保勝会が秩父郡市文化財保護協会より表彰される
表彰状
8日(土) 古代稲刈り
埼玉県内小中学校教職員25名和銅遺跡見学(案内説明)
18日(火)国立市公民館長他二四名和銅遺跡見学(案内説明)
20日(木)和銅会報第16号発行
30日(日)美の山観光道路清掃活動


和銅露天掘跡見学道路改修工事は進行中で、本年中には完成の予定。なお、和銅遺跡入り口の大看板も近々建て直されます。


【一口知識】皇朝一二銭
 中国の先進的な文物制度を積極的に取り入れようとしていた日本は,和銅元年(708)唐銭「開元通宝」をモデルに「和同開珎」を発行しました。独自の銭銘をもつ貨幣の鋳造は東アジアでは中国に次いで早いのです。以後250年間に銅貨12種(皇朝12銭)、銀貨1種、金貨1種がつくられました。これらを朝廷の発行した貨幣という意味で「皇朝銭」と言います。
わどうかいちん
和同開珎
708
まんねんつうほう
万年通宝
760
じんごうかいほう
神功開宝
765
りゅうへいえいほう
隆平永宝
796
ふじゅしんぽう
富寿神宝
818
じょうわしょうほう
承和昌宝
835
ちょうねんたいほう
長年大宝
848
にょうやくしんぽう
饒益神宝
859
じょうがんえいほう
貞観永宝
870
かんぴょうたいほう
寛平大宝
890
えんぎつうほう
延喜通宝
907
けんげんたいほう
乾元大宝
958

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