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| 和銅会報 第15号 平成9年9月30日発行 |
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和銅銭(わどうのぜに)−伽婢子(おとぎぼうこ)より− |
| 前号の「和同開珎の枝銭」で触れた「和銅銭」の物語を紹介します。伝承としての「和同開珎」を知る貴重な資料となりましょう。 |
京都四条の北大宮の西に、いにしへ淳和天皇(じゅんわてんのう)の離宮(りきう)ありける。ここに西院(さゐん)と名づく。のちに橘の太后(おほいきさい)の宮すみ給へりといふ。時世うつりて宮殿(きうでん)はみなたえてわずかに名のみ残り、今は農民(のうみん)のすみかとなれり。 文明(ぶんめい)年中に、長柄僧都昌快(ながらのそうづしやうくわい)とて学行(がくぎやう)すぐれたる僧あり。世をいとふて西院の里にひきこもり、草庵(さうあん)をむすびてしずかにおこなわれしに、ある日あやしき人たづねて入(いり)来(く)る。年五十ばかり、そのすがたはなはだ世の常ならず。いたゞき円(まろ)くして下に角(かど)ある帽子(ぼうし)をかづき直衣(なをし)の色浅黄(あさぎ)にて、その織(をり)たる糸(いと)、ほそくかろらかにうすき事せみのつばさに似たり。みづから秩父和通(ちちぶかずみち)と名のりて、僧都とさしむかひ座してさまざま物がたりす。我はもとこれ武州秩父郡(ぶしゅうちちぶのこほり)のもの、中比(なかごろ)都にのぼり、それより本朝諸国のうちゆかざる所もなく、みざる所もなしといふ。僧都心におもはれけるは、是(これ)まことの人にあらじとをしはりながら、しばしば問答(もんだう)して時をうつす。真言(しんごん)三部(ぶ)の秘経(ひきやう)、両界(りやうかい)の曼陀羅(まんだら)、印明陀羅尼(いんみやうだらに)、灌頂(くはんぢやう)の事までも、その深き理(ことはり)をのぶるに僧都いまだしらざる事おほし。それより世のうつりゆく有(あり)さま、昔今の事親(まの)あたり見たがるがごとくかたりけり。僧都問(とひ)けるは、君の帽子(ぼうし)は本朝の制法(せいほう)に似ず。外円(ほかまろ)くして内方(かた)なるは何ゆへぞやと。和通(かずみち)こたへけるは、をよそ天地万物のかたち品々ありといへども、つゞまる所は、円(まろ)き、方(かた)なる、ふたつの外なし。我外を円(まど)かに、心を方(かた)にす。天のかたちは円(まろ)く地のかたちは方なり。円きは物にかたよらざる所。方(かた)なるは物の正しき所也(なり)。されば我が道(だう)は万物にかたよらずして、しかも万物にはづれず。正しくして曲(ま)がりゆがまず。これをあらはして頭(かしら)にいただけりといふ。僧都のいはく、君の直衣(なをし)ははなはだかろく、細(ほそう)して薄(うす)し。これいづれの国より織(をり)出せると。和通(かずみち)こたへけるは、これ五銖(しゅ)の衣(きぬ)と名づく。天上の衣は三銖(しゅ)といへども下天の衣はみなをもき五銖・六銖なりといふ。 |
僧都、さてはいよいよ、人間にあらずとおもひて、重ねて問けるは、君、まことはいか成(なる)人ぞ、名のり給へと云(いふ)に、この人うちわらひ、僧都の道心(だうしん)ふかきによりてこそ、来(きた)りて物語はすれ。我が名をなのるには及ばず。やがて名のらずともしろしめされむものを。今は日も暮がた也。いとま申さむとて、座を立(たち)て出(いづ)る。そのゆく跡を認(とめ)てみれば、庵りの東のかた廿間(けん)ばかりにして、竹やぶの前にてすがたは見うしなへり。 明日(あくるひ)里人をたのみてその所を掘(ほら)せらるゝに、三尺ばかりの下にひとつのはこあり。その中に銭百文を得たり。其(その)外には何もなし。僧都これをとりてみるに、和銅通宝(わどうつうほう)の古銭(こせん)なり。つらつらおもふに、秩父和通(ちちぶのかずみち)は此(この)銭の精(せい)なる事うたがひなしとて、地をほりける里人をよびて、僧都物語せられけるやう、この人の形ち初めよりあやしみ思へり。今これを案ずるに、むかし本朝人王43代元明(げんみやう)天皇の御字7月に、武州秩父(しうちちぶ)の郡よりはじめて銅(あかがね)を貢(たてまつ)る。そのときの都は津の国、難波(なのは)の宮におはしませり。これによりて慶雲(けいうん)5年をあらためて、和銅(わどう)元年と改元(かいげん)あり。此年はじめて貢(たてまつ)りし銅(あかがね)をもつて銭を鋳(い)させらる。されば今この和銅通宝(わどうつうほう)の古銭(こせん)は、其時の銭なるべし。帽子(ぼうし)の外円(まろ)く内方(うちかた)なるも、これ銭の状(かたち)なり。青き色のひたゝれは、これ銅(からかね)の衣(さび)ならん。五銖(しゅ)のをもさは銭のをもさをあらはし、和通(かずみち)と名のりは、和銅通宝の略(りやく)せる名也。秩父(ちちぶ)の者といひしは、もと銅(からかね)の出(いで)そめし所なり。それよりみやこにのぼり、諸国あめねくめぐり見たるといひけるも、銭となり諸国につかひわたされし事なるべし。それ銭のかたち、外の円きは天にかたどり、穴の方(かた)なるは地にかたどり、表裏(おもてうら)は陰陽(いんやう)なり。文字(もじ)の数4つは四方にかたどり、その年号をあらはして、天下に賑(にぎ)はす宝(たから)とす。銭はこれ足なくして遠(とを)くはしり、翅(つばさ)なくして高(たか)くあがる。容曲(かほくせ)わろきも銭にむかへは(ゑ)笑(ママ)ひをふくみ、詞(ことば)すくなき人も、銭を見ては口ひらく。杜預(どよ)に左伝(さでん)の癖(くせ)あり。楽天(らくてん)に詩(し)の癖(くせ)あり。樊光(はんくはう)は銭の癖(くせ)ありとはいへ共(ども)銭の曲癖(くせ)は人ごとにあり。鬼(をに)をしたがへ、兵(つはもの)をつかふも、みな銭に過(すぎ)たる術(てだて)はなし。欲(よく)ふかきもの銭を見ては飢(うへ)て食(しよく)をもとむるがごとく、むさぼりおほき人銭を得ては病人の医師(くすし)に逢(あふ)に似たり。まことに宝(たから)也とて打(うち)わらひ、かの百文の銭をわかち、里人にあたへ、みづから真言陀羅尼(しんごんだらに)となへて供養(くやう)をとげらる。里人それより家々にぎはひゆたかになりて、僧都をうやまひかしづきしが、後に山名が乱(らん)にあふて、里人みなちりぢりになり、僧都も行(ゆき)がたなく、古銭(こせん)もみなとり失なへりといふ。 今から330年も昔に書かれたお話で、言いまわしのむずかしいところはありますが、「和同開珎」という日本最初のお金が、黒谷の銅で造られたことや、その形にも深い意味のあることなどがよくわかります。 |
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(最近「黒谷の和銅」のことでいろいろな質問が寄せられています。和銅遺跡顕彰の上から大変嬉しいことです。気楽にお尋ね下さい。質問、意見、要望等ありましたら下記へお願いします。) ◆秩父市大字黒谷260-2 太田口 八郎 電話24-5595 ◆秩父市大字黒谷567 若林 好 電話23-5631 *「和銅会報」バックナンバー希望の方はお申し出しください。 |
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