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| 和銅会報 第14号 平成9年8月5日発行 |
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1.枝銭発見場所 難波京跡・細工谷遺跡 |
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大阪環状線「森ノ宮」駅から阪神高速13号東大阪線沿いに7〜800m、15分程歩くと「難波宮跡公園」に着く。真北は大阪城で、高速道の歩道橋に上ると天守閣が手に取れるほどの近さだ。ここを南北に貫いて朱雀大路の走る難波京が、平城京の副都として約1250年前に造られたところである。その往時の朱雀大路を、大極殿跡から二粁程南に下ったところの東方百米に細工谷遺跡はある。 大阪城から南に向かって、昔からある台地が上町台地と呼ばれて、日本最古の官寺とされる四天王寺から住吉までも続いているが、その台地の東斜面に東南方向に開いた谷があって、その谷頭が細工谷である。難波とは、上町台地の北半部を中心とする地域の古い呼び名であって、その難波京の一角の「細工谷」から和同開珎鋳造過程の遺物である「枝銭」が発掘されたのである。今後の研究にによっては和同開珎鋳造地の謎を解く可能性が大いに期待される一大発掘と言ってよいであろう。 |
2.発見されたもの |
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各時代にわたって多くの資料発掘があったが、ここでは飛鳥奈良時代(現地表から1〜3.5m下にある層)の、主として金属、それも銅と銅銭を取り上げてみる。 1.和同開珎の枝銭(奈良時代、八世紀後半の排水用の溝で発見) 2.和同開珎30数枚 3.富本銭(「富」というめでたい文字を刻んで、福の招来を期待するまじない用と考えられる銭貨。藤原京、平城京など奈良の都城で四例発見されただけで、奈良以外での発見は今回が初めてである) 4.役人のベルト金具 5.金鉗(熱した金属や坩堝などをはさむ道具) 6.銅板の切り屑 7.金属を溶かした際に生じたかす(鉱滓) ![]() |
3.わかったこと |
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○ 難波京域から奈良時代の銅製品が多数出土したのは初めてのことである。しかも、金鉗・銅板の切り屑・鉱滓などが見付かったことから、銅製品生産工房が細工谷 周辺に存在した可能性が非常に高まった。 ○ 枝銭や製作途中の和同開珎が見付かったことは、銭貨の製造を行っていた可能性 が十分に考えられる。 ○ 役人のベルト金具は実際に使用されていたもので、新たな銅製品のための材料と して集められたものとも考えられる。なお、原料として集められたものの中に枝銭も入っていたと考えることもできるという。 ○ 銅製品は、溝の底近くから出土するものが多く、溝が掘られてすぐ捨てられたよ うである。和同開珎や銅製品は集中して出土するところが数カ所あった。何らかの意図(信仰と関係?)があって投棄されたのかも知れない。 |
4.枝銭のこと |
| 和同開珎の枝銭が発見されたのは、今回が初めてである。和同開珎六枚分に鋳棹(湯道)がついたままの状態で出土し、木の枝の形に似ているので枝銭と呼ばれるが、これまで見付かっている鋳型(銭笵)には和同開珎が二列以上並んだものがあるので、この枝銭は湯廻りが悪くて製品とはならなかったが、この先の銭は切り離して完成品として用いられた可能性があるかも知れないという調査員の見解もあった。(長さ一一・九糎、幅五・八糎、重さ七八・九グラム) |
5.難波に鋳銭組織はあったのか |
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文献上(主として続日本紀であるが)、和同開珎の鋳造は、鋳銭司の監督下で行われたと考えられている。河内、近江、播磨、太宰府、長門、山城には鋳銭司が置かれた記載が残っているが、難波の名は見えない。 又、山城の銭司などの例だと、和銅とか金山とか、金鋳山などの鋳造との関連を思わせる地名があり、黒谷にも和銅、金山、銅洗堀などの地名が残っているが、細工谷近辺には、そのような地名はないという。 文献とは言えないかも知れないけれど、難波と銅を考える上で大変興味ある資料に遭遇した。「秩父市誌」の中で知って校注本に当ってみたが、「伽婢子」(1666・寛文6年刊)の中の「和銅銭」に、「武州秩父の郡よりはじめて銅を貢る。そのときの都は津の国難波の宮におはしませり。・此年はじめて貢りし銅をもって銭を鋳させらる。」とあり、作者浅井了意の根拠とした事実は何であったのか、大変興味をそそられたことであった。(別の機会に「伽婢子」の物語は紹介したい。) ◎参考資料 ・「細工谷遺跡発掘調査現地説明資料」(大阪市教育委員会、(財)大阪市文化財協会) ・大阪市文化財情報「葦火」68号(大阪市文化財協会 編集・発行1997年6月) |
和銅会報ニュース |
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●和銅露天掘跡見学路の修復工事が本年度の事業として実施されることになり、既に杭打ちも始められました。 ●古代米「黒稲・赤米」の田圃ができました。稲の色を組み合わせて和同開珎を型どって植え付けられました。秋の収穫が楽しみです。 |
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