和銅会報
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和銅会報 第10号 平成8年5月15日発行

第9号第10号第11号

「書き物」に残る和銅の里−黒谷−
1.黒谷の銅製錬所跡(金山)
文学資料をもとに図式化した金山坑道
 本文中の(1)〜(4)が上図の(1)〜(4)に符合します
(1)其一ハ穴口五尺許幅四尺許深サ六間右ニ少シ回リテ入ルコト五間許 (2)其一ハ穴口前ニ同シ入ルコト七八間ノ間ハ乳水鮎點滴シテ湛水脛ニ及ヘリ右ニ折テ十二三間ニシテ止ム (3)其一ハ二穴一所並フ一ハ入ルコト二間許一ハ口窄ク折腰シテ入ルコト六七尺居三叉セリ中央ハ入ルコト二間居右ハ六七尺左ハ六七間 (4)其一ハ又二穴一二並フ左ノ一ハ入ルコト二間許右ノ一ハ三間許モ入リ乳水湛ヘテ深サ股ニ及ヘハ其奥ヘハ入リカタシ
(新編武蔵風土記稿「黒谷村」)


2.黒谷村(村名の歴史)
(1)1193年(建久4)前後−丹党系図「国時 黒谷五郎左衛門」
 丹党大河原氏の祖となる大河原弥四郎時季の二男・五郎左近秋時の長子・国時が黒谷五郎左衛門とあって、黒谷に分派したことを示している。「頼朝富士牧狩御供二参り、為曽我五郎被疵云云」と添書がある。これに従えば、頼朝が富士野の巻狩(曽我兄弟が父の仇工藤祐経を討った)を催した建久4年に前後する時代のことになる。

 しかし、黒谷地方の口碑(言い伝え)では、諸文献とは異なり、黒谷次郎国時と呼び、墓所も残っていて、今も供養が続けられている。当然、「原谷村誌」も、この伝承に沿っての記述になっている。(内閣文庫蔵「諸家系図纂・丹党(丹治)」、嘉永6年成立・富田永世編著「北武蔵名跡志」、井上要著「秩父丹党考」、「原谷村誌」)

(2)1373年(応安6)−塩船観音寺蔵大般若経奥書「奉於黒谷郷大畠」
 東京都青梅市塩船観音寺に蔵されている「大般若経巻23」の奥書に、応安6年7月10日の年紀で「奉於黒谷郷大畠之少菴而覚能憎書之」(黒谷村大畠の小庵にて憎覚能、これを書き奉る)と残されている(筆者は)実物に触れてはいないが、塩船観音寺の現住職橋本好永氏に確認を依頼したところ、埼玉県史編纂に当たって、調査の結果、秩父郡黒谷村大畠(大畠は大畑とも書き、現在も黒谷の公図上「大畑」(おおばたけ)の小字で残っている)として「埼玉県史」にも収録された経緯のご報告をいただいている。残念ながら「納経された経過や伝承は600年の歳月の流れた現在、定かではありません。」とのことであった。(「新編埼玉県史」平凡社「埼玉県の地名」)

(3)1598年(慶長3)−地詰帳
 秩父市指定有形文化財「内田家文書」(内田竹太郎氏蔵)の「慶長3年の地詰帳」(慶長黒谷村永高検地帳)の中で、「くろや」が「川はた」や「沢はた」の地名に混じって書き上げられていて、郷村名の「黒谷」ではなく、小字か耕地の呼び名であることが明らかな形で出ているが、現在、その場所を特定するまでには至っていない。

3.黒谷村(村名の由来)
 一般論でなく、この黒谷の特色を書いているのは「風土記」類である。新編武蔵風土記稿を筆頭にして列記してみる。
●村名ノ起リハ山ニヨリテ木立茂ク緇ク暢茂セル(黒く茂っている)山谷ナレハトテ爾カ云ヘリ(このように呼ぶ)(1828年(文政11)「新編武蔵風土記稿」)
●水茂り闇き黒谷村也「1764〜1772年(明和年間)「増補秩父風土記」」
●木茂り闇き谷村 「右と同時期の成立?「千茅生婦とき」(ちちぶふどき)」
●山麓ノ村落ニテ草木蕃蕪シ(乱雑に生い茂り)久呂美久良之(黒み暗し)と云意ヨリ名トセルナルベシ「1887年(明治20)大野満穂「秩父志」」
●金、銀、銅、鉄生存の地は皆黒色なり。故にその里を呼んで黒谷村といふ。又、採銅の時、勅を奉ぜる蔵人が頻年此処に居住したる故、古えは蔵人屋(くろうどや)と云ひしを、後転じて句呂谷と書き、今又村人文字を改めて黒谷といふ。
「久下 司「和銅」・聖神社「御神宝旧記」」

 このような黒谷の由来を見、「くろ」の語源が「黒い」や「暗い」に通じて暮れ色などと解されることが多いが、畔や畦(共に和名抄で「くろ」)の「くろ」は「小高くなった所」、また、「物を小山のように積み上げたもの」の意になるとする説もあれば、「崩壊地形、侵食地形」を示す「くる(刳る=えぐる、くりぬく)」が語源ではないかという説もある。尾根筋などの「斜面」「河谷、山裾などの屈曲した所」を指すという。一方、「や」は「水のある不毛地で草などの茂っている所」である。こう見てくると、蓑山の山裾にあり、東、南に横瀬川が深く切れ込んで流れ、西側は絶壁となって荒川に面している黒谷の地形からいえば、単に木が茂って暗いという意味づけでは適切でないような気がしてくる。

 その点で、新編武蔵風土記稿は、「暗い山谷」とは言いながらも黒谷の地形風土を「東ニ山ヲ負ヒ南ハ漸下シテ荒川ニノソメリ」「民家多クハ山根ニ住ヒ或ハ山腹或ハ山上ニ散在セリ」「土性ハ真土小石交リニテ水田ハ僅ニシテ陸田ハ過半ニシテ山ハコレニツゲキリ」「小川八ヶ所 皆箕山ノ澤々ヨリ湧出シテ五流ハ横瀬川ニ入リ三流ハ荒川ニ入ル」
と、的確に表現している。

 黒谷は決してそんなに暗い所ではなかったのである、と思える。
「楠原佑介他「古代地名語源辞典」「地名用語語源辞典」」


黒谷地名考−由来と現況−(その2)
殿地(どんじ)
 殿地を紹介するのには、先ず、屋敷のことから始めなければなりません。土地の人々から名字より屋号(殿地)で呼ばれているお宅があります。それは祝山(通称殿地山)北の麓、秩父三屋敷の1つ、と言われている屋敷です。裏には和銅沢が流れて瀧を造り、東には山の自然に融和させた庭園があります。庭園の造りは京都風とか?!池は銅泉の水を和銅沢から樋によって引き、流れ抜きになっていて水は絶えることなく、やがて荒川に注ぎます。昔は池が7つあったと聞きますが、50才代後半以上で殿地を知る人は憶えていると思いますが、昭和20年頃迄は3つありました。太平洋戦争の時食料不足を補うため1つ埋めて水田にし、現在は2つしか残っていません。植え込みの松がありましたが、大きな老松2本が昭和62年松食い虫にやられ枯れてしまいました。1本は直幹、1本は「寿」の文字を形どって作られたと言われる松でした。今残るのは池の中の島にある松で、これがまあまあ見られる松でしょうか。ツツジ、皐月は種類も花の色もとりどりで、開花の時期も少しずつ違えてあります。長い間花を楽しむという配慮なんでしょうか。もみじの種類も多様です。四季折々に色を7色にかえて人目を楽しませてくれるもみじもあります。早めに春を告げてくれる梅もあります。桜に続いて5月には柏も緑になります。竹林や樫を始めとする常緑樹は花の咲かない季節を彩ってくれます。山の斜面に露出した巌にも何か謂れがありそうです。置石にも工夫が見られます。登りや下りの格好をした亀の子石などもあり他の石も良く観察すれば何かの形、何かの謂れがあるのかもしれません。そして植込みなどと合わせて「祝」「めでたい」「華やぎ」「静寂」「幽玄」等を表現しているのではないかと思われます。底からの眺望は南に武甲山の雄姿を、南東に和銅山の頂を間近に、西の彼方には三峰や両神の稜線を仰ぐことができます。

 さて、どんじの語源ですが、その昔黒谷から自然銅(和銅)が発見され日本の歴史に一大エポックがもたされたことは既発行の「和銅会報」の中でも周知のとおりですが、大変お喜びになられた時の帝 元明天皇は早速宮中から採銅勅使として従5位上多治比真人三宅麿(蔵人)を現地に遣わせて、後に催鋳銭司に任じ、武蔵和銅をもって、我が国初めての貨幣を鋳造することになったと言われます。その役人が駐在(土着)していた地、つまり「殿様の居た土地」という意味の言葉が時を経て変化し「殿様の居た土地」「殿の居た地」「殿の地」「殿地」と呼ばれるようになったと考えられます。何時頃から「どんじ」と言われるようになったかは定かではありません。又蔵人がすんで居たので「蔵人屋敷」とも言います。

 栄枯盛衰は世の常、現在は荒れています。然し、風光絶景の面影を留めているこの屋敷を見れば、昔はとても贅沢な暮らしをしていた偉い人が住んでいたことを伺い知ることができます。

(注)蔵人(くろうど(くらんどとも言う))=くらびとの変化。蔵人所の職員。初め機密文書や訴訟を扱ったが後に天皇の日常生活に関すること儀式その他宮中の雑務を受け持った。
蔵人所=蔵人が事務を執る宮中の役所。

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