和銅会報
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和銅会報 第9号 平成8年4月25日発行

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特集 和銅遺跡案内
1.和銅遺跡とはどういうところか
 日本の歴史の上で「慶雲5年・西暦708年、武蔵国秩父郡から和銅が献上され、それを記念して年号が「和銅」と改元され、日本最初の貨幣「和同開珎」が発行されました」とあることは広く知られています。その「和銅」が採掘された跡が残っているのが、ここ秩父市黒谷の「和銅遺跡」ということなのです。

 ところで、この遺跡は大きく分けて2ケ所なります。1つは、埼玉県指定旧跡の「和銅採掘露天堀跡」で、もう1つが、秩父市指定史跡「黒谷の銅製錬所跡」(俗に「金山」とよばれている)です。とにかく同一視されたり混合されることが多いのですが、時代的にも内容的にも一応切り離して見ていただくのが妥当と思われます。

(A)和銅採掘露天掘跡
 和銅関連施設で一番眼についてわかりやすいのは聖神社ですが、そこから山道を登って15分程で露天堀跡に着きます。高さ5米もある「日本最初の銭貨『和同開珎』」のモニュメントが建てられています。流れている沢は、「銅洗堀」です。そこに立てば、南東面にそそり立つ和銅山に、二条の露天掘跡が山頂に向かって続くのが眼に入ります。

 更に、沢に架かる橋を渡り、和銅山の中腹まで登れる階段の道を行けば、断層面をえぐって和銅が採掘溝を真上から覗くことができます。そこでは、1300年もの大昔、地殻変動面に露出した和銅(ニギアカガネと言い、殆ど純銅に近かった)が発見され、採掘をされて都に運ばれ、それを喜ばれた元明天皇が「和銅」と改元されたという日本史上の一大慶事発祥の源泉に触れる思いに浸ることができます。

 その「和銅」の歴史に名をとどめるのは、催鋳銭司(さいじゅつぜんし)の多治比真人三宅麻呂(たじひまひとみやけまろ)、採掘に深い関わりがあったであろう金上无(こんじょうむ)、日下部宿禰老(くさかべのくすねおゆ)、津島朝臣堅石(つしまのあてんかたしわ)などがいます。やや伝説めくところがありますが、運搬、鋳造にまつわっては羊太夫(ひつじだゆう)の名前がしばしば登場します。

(B)金山(黒谷の銅製錬所跡)
 金山は、和銅山・祝山や妙ヶ峠に連なる山の名前で、現在はかなり広い部分の地域を指す地域名でもあります。そこに銅製錬所跡や鉱坑が数ヶ所散在しています。古い記録などをたどると5ヶ所8本が最多のようですが、現在は遊歩道に沿って3ヶ所4本の坑道口を見ることができます。

 銅製錬所跡及びその周辺から出土した遺物の中には、室町時代に作られた金銅仏の菩薩立像(虚空像様と地元では呼んでいます)があります。昭和9年に製錬所の溶鉱炉跡のかたわらから発掘されました。その他、付近の畑地から出土した煙管の雁首4個と吸い口1個があります。形状等から江戸期前半のものと思われます。溶鉱炉は径3尺、深さ2尺5寸程の白粘土製の坩堝(るつぼ)であることが確認されています。その付近には「からみ」(いわゆるスラグ。カナクソとも言われる製錬時に出る「かす」)が沢山ありました。

 坑道はノミを使って掘られています。46のかせ(横4尺縦6尺の坑)、56のかせ、大下り(降り掘り坑)などと呼ばれた坑がありますが、掘り進む方向や深さ(長さ)が、江戸末期の記録に残されています。なおこれらの鉱坑は、伝承によって製錬所跡から順に上に向かって、徳川家康、大久保石見守、武田信玄の坑区などと名付けられています。

 このように遺物、伝承等から見て、今から500〜300年前の銅採掘坑であって、直接和銅の時代との関連は薄いもののようですが、和銅山から金山一帯にわたって銅の鉱床が広がっていることを実証する遺跡であることは間違いありません。

(C)聖神社
 和銅の発見、献上を喜ばれた帝は、勅使を遣わし祝山に神籬(ひもろぎ)(神霊の宿るところ)を建てて金山彦尊を祀り祝典を挙げました。聖神社の創建は和銅元年2月13日で、祝山から銅洗堀を隔てて、蓑山を背にした清浄の地を選んで遷座せられ、オホヒルメムチノミコト(天照大神)、クニトコタチノミコト、カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)が併せ祀られました。

 その創建当時、採掘された和銅石13個(神社に現存するのは大小2個)と、元明天皇下賜の銅製の蜈蚣(むかで)雌雄一対が御神宝として納められ、今に伝えられています。(聖神社氏子総代長を通じて申し込めば、拝観することができます。同時に和同開珎も見られます。)

 養老6年(722)11月13日には元明天皇を合祀し、秩父の総社と称されました。社殿は創建以来数度の改築があり、現在に残るのは文化4年(1963)8月再建のもので、昭和38年(1963)社殿を秩父市中町の今宮神社本殿から移築改修したことにより、旧本殿は脇に移され、大国主命を祀る和銅出雲神社として奉斉されています。ところで、現社殿ですが、一間社流造りの本殿と入母屋造りの礼拝殿からなり、江戸中期宝永6〜7年(1709〜10)の建築で、大宮郷の工匠大曽根与兵衛によって建立されました。彫刻は桃山期の遺風をわずかに残した活気に満ちたものです。「聖神社の社殿」として秩父市指定有形文化財になっています。

(D)黒谷の獅子舞
 伝説によると、黒谷の獅子舞は左甚五郎が黒谷の地に立ち寄り、竜頭を刻み聖大明神(聖神社)に奉納したことに始まると言われています。元禄の末年各地に獅子舞が流行した時、この竜頭を模して獅子頭を刻み、大畑の伊左衛門という人が三河国岡崎から師匠を招き15種の舞を伝授されたと言います。そこから岡崎下妻流と名付けられているのです。

 また、文政初年の頃、秩父地方は年々日照りが続き、連年の不作に困り果て、色々と雨乞いの手をつくしました。この時、秩父代官の御陣屋から黒谷獅子舞連中に妙見様(現秩父神社)に来て雨乞い簓(ささら)をするように仰せ付けられました。竜頭を先頭に瓢箪廻しという簓を舞ったところ、雲1つない青空にたちまち黒雲がわき、見る見るうちに大雨が滝のように降り出しました。御代官様は大喜びで、お褒めの言葉と金一封を賜ったと言われます。そこから黒谷の獅子舞は「雨乞い簓」とも呼ばれているのです。

 現在も郷土の芸能として受け継がれ、聖神社の大祭に奉納されるほか、各地に招かれ披露しています。黒谷獅子舞保存会を中心に青少年、小学生の獅子舞団によって後継者も育成されています。秩父市の指定無形民俗文化財です。

(E)和銅鉱物館(蔵・蕨手刀)
 境内の西隅の小さな建物ですが、明治41年(1908)10月、大野原古墳群の中、現秩父市原谷小学校庭にあった円墳から出土した埼玉県指定有形文化財「蕨手刀」をはじめ、直刀6振、鉱石349点、書籍3冊等の収蔵品が展示されています。鉱石は柾丹治先生、久下 司先生、小林據英氏、太田口福松氏、日窒鉱業所他の御寄贈によるものですが、和銅の自然銅含有鉱などもあり、貴重な参考資料が多数陳列されています。

 「蕨手刀」というのは、柄頭が蕨の若芽に似た曲がり形をした刀なので、そう呼ばれていますが、製作年代は7〜8世紀初頭と見られ、関東地方からの出土は大変珍しいのです。平背、平造り、無反の刀相で、全長44.8センチ、刀身32.6センチの刀です。

2.見学コースと見どころ
(A)秩父鉄道黒谷駅下車にしても、国道140号を車で来るにしても、黒谷駅前から見て東方の祝山の大岩に「和銅」の白い大文字を見て、聖神社を尋ねるのが、1番の早道でしょう。聖神社参拝の後、鳥居前の案内板にしたがって「露天掘跡」までは15分ほどです。付近の和銅ゆかりの地は、銅洗堀に沿って下って殿地(どんじ)と内田家です。

 殿地というのは、採銅勅使の屋敷跡で、祝山を背景にし、銅洗堀から水を引いた池を持つ秩父三屋敷の1つと言われる旧跡です。今もその面影をとどめた名勝と言えましょう。

 内田家は、古く聖明神が祀られ、御神体銅石が家宝として秘蔵されていると言われます。家屋そのものが、建造物として秩父市有形文化財で、17世紀初期の建築とされます。寄棟トタン葺の長屋門を南に、藁葺きの主屋が古木の林を背に、すこぶるよい景観です。代々名主の家柄で、「内田家文書」は秩父市指定有形文化財です。

(B)製錬所跡と金山鉱山跡を見学するには2通りの行き方があります。和銅鉱泉裏の山寄りの道から道標に従って登る方法と、美の山公園観光道路の途中にある「製錬所跡」入り口の道標の所から下る方法です。下りを選んだほうが歩く距離は少なくてすみます。いずれにしても、車の場合、運転士も一緒に見学するとすれば、歩きだした所へ戻らなくてはなりません。

◎秩父市和銅保勝会とは、「1300有余年の歴史を持つ和銅並びに関連する文化財、名勝地の保存顕彰に努めること」を目的として、上・下黒谷町会の行政担当者、聖神社氏子・関係者、町内在住の学識経験者等を構成員に、既に40年に近い活動を続けている文化団体です。

「和銅遺跡の全体をまとめたものをという要望に応えて、発行1周年に当たり、「和銅遺跡案内」を特集しました。紙面の都合で案内図が掲載できませんでしたが、第4号(平成7年6月30日発行)の「和銅遺跡周辺案内図」をご参照下さい。資料、文献等は煩雑を避けるためすべて省略させていただきました。」

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