和銅会報
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和銅会報 第7号 平成8年1月15日発行

第6号第7号第8号

[報告] 原谷公民館主催・郷土学習講座
和銅史跡について
 市制45周年・原谷公民館改築記念の文化祭(11月1日〜5日)に引き続き、17日〜18日の2日間にわたって実施された。原谷で行われるこの種の研究講座としては、久方振りの行事であった。講師の太田口八郎氏(秩父市和銅保勝会会長)による講義と現地説明という構成であったが、参加者は嘗て原谷村詩で和銅関係の分野を担当した方、郷土の歴史・民俗に深い関心を寄せる人、又、史跡保護等文化財関係に精通した方等、それぞれの方面に造詣の深い人々が、活発に発言する場もあって、大変有意義な講座であった。
 1日目は、新装成った原谷公民館で、和銅発見、和銅献上、和銅改元等の史実をめぐって、講師の幅広い話題を取り混ぜての、質の高い講義解説があった。あらためて「和銅と黒谷」への興味を高めていただいた。
 2日目の現地研修では、聖神社のご協力ご支援をいただいて、御神体和銅、御神宝の蜈蚣(むかで)、和同開珎等の拝観、鉱物館、和銅露天堀跡、殿地(どんじ)跡の見学と、講師の解説を聞きながら、地区内にいても仲々得られない貴重な体験の半日を楽しく過ごした次第であった。
 なお、公民館では「郷土学習・和銅史跡」を年間の講座計画に入れることも考えていられるやに聞き、今後が楽しみである。

☆講座参加者名簿(申込順)
浅見暁江・倉林今朝夫・青木成盛・若林 好・宮谷リエ子・石原儀助・吉田 稔・福島 洋・川副峯一・新井八重子・斎藤喜子・太幡喜一・田口友江・小久保正良・設楽清志・吉田貞次郎・浅見幸子・今井 薫・浅見勘一郎

(「羊太夫の伝説をめぐって」ということで、編集を進めてきましたが、久下先生の訃報に接し急遽変更しました。)

「和銅」研究の第一人者 久下 司先生逝く
−天寿全うし辞世残し−
 和銅の歴史、それも秩父と和銅、黒谷と和銅という点で関心をもたれる方なら、この人の研究に触れずには素通りできない人、その人こそ久下 司先生であると言っても過言ではないであろう。
 その久下先生が平成7年11月23日、93歳の天寿を全うされて他界された。ご冥福を祈り、あらためて先生の業績を偲びたいと思う。
 「私の家は農家であったから、屋敷も広く、それに曾祖父・祖父と2代続いて植物が好きで、色々の植物を集めて栽培していたので、普通植物は大抵庭の中に植えられていた。故にその植物を見て育ったので、植物が好きであった。」と「紫草の研究」の緒言で先生は幼少時を回想している。先生は、明治35年(1902)埼玉県狭山市の生まれである。
 先生が小学校を終わる頃、「大正時代の農村は最も貧困不景気の時で、私は小学校を卒業して進学の道がなかった。」という。その先生が小学校の教員として東京西多摩檜原村に赴任したのが、大正10年4月、19才の時であった。そこで運命の「ムラサキ」草と対面する。ムラサキ草は、先生を萬葉集の世界に誘う。
 あとは奇しき御縁で、先生の大著「日本化粧文化史の研究」の序文を戴いている三笠宮崇仁殿下が、久下先生の研究の主題と、「和銅」との関連をも明確に紹介して下さっている。
 「氏は(久下先生のこと)、国文学の勉強を志しているうちに化粧の問題に興味を抱き、そこから考古学、植物学、鉱物学などの研究に手を延ばされた。」とその序文の中で殿下はお述べになっていられる。
 つまり、久下先生は生涯を通して化粧文化史という研究の主題を持たれ、その研究に必要な補助的な分野の中の1つとして「銅」にも手を延ばされたのであって、その主要な対象に「黒谷の和銅」も入っているというのが、正しい位置づけのように思われる。
  これほど左様に、先生の研究は広範、深遠極まりないのである。ここでは取りあえず、年代を追って主要な経歴を列記するにとどめ、業績内容等の紹介は別の機会に譲ることにしたい。

(経歴の概要) (「−−」は著作物をあらわす)
明治35年(1902)埼玉県狭山市に生まれる。
大正10年(1921)19才 東京府西多摩郡檜原村小学校教員として赴任
大正12年(1923)21才 大嶽山で「ムラサキ草」を見つける。
(学校歴)国語伝習所・二松学舎専門学校・日本大学高等師範部・法政大学文学部史学科卒業、法政大学大学院(東亜考古学専攻)終了
(研究歴)植物学(文部省勤務中3年間)、日本考古学、漢文学、書道、文章作法、紫草の研究
昭和13年(1938) 36才文部省より中華民国に派遣される。
(蒙古軍官学校の歴史科教官・西北事情研究所主事)
(研究歴)蒙古学、中国西北文化史、篆刻、スキタイ系綏遠青銅器、漢唐青銅器、蒙古考古学、中国近世史
昭和21年 日本の鉱山史(古代銅山を中心)調査研究で全国を巡る(10年間)(黒谷に足を運び「和銅」研究をしたのはこの頃)
鉱物学、鉱山学、漢籍、米作史、古代蓮栽培法、土師器時代の荏(胡麻)の種子の育成研究
昭和23年(1953)51才「武蔵国秩父郡和銅の遺址」「日本化粧史考」
昭和36年(1961) 59才「大陸文化より見たる日本上代文化発達史の研究」
(この下巻に「和銅」の詳論が含まれる)
昭和45年(1970)68才「ものと人間の文化史(4)化粧」
昭和48年(1973)71才滋賀県大津市近江神宮社内で研究
昭和50年(1975)73才飯能市の親戚の別宅で研究
昭和52年(1977)80才自宅に戻る。この頃、辞世歌「化粧のお国」作る。
平成3年 (1991)89才執筆活動を終了する。
平成5年 (1993) 91才「国文学史上より見たる「詳説」日本化粧文化史の研究」
(これは1300頁に及ぶ大著で、葬儀後に太田口会長宅へ1冊贈呈された。その中に書かれた自伝的な部分を読ませていただき、先生の生涯をたどり、年譜の形にまとめたのがこ追悼文である。)
平成7年(1995) 東京都小平市鈴木町2丁目251にてご逝去 享年93
(先生とご親交の深かった方も大勢居られるので、直に接した先生の面影や印象を語っていただいたり、先生の残された研究でまだ余り紹介されていないものなど、今後も続いて紙上で取り上げさせて戴きたいと思っている。)

黒谷地名考−由来と現況−
 車社会へ対応するための道路の設備、住環境の多様化に伴う急速な宅地化の進行等により、かつての農山村の風貌が一変することが珍しくない現代である。黒谷とて例外ではない。和銅献上以来1300年にも及ぶ歴史の刻まれたこの郷土に、先祖の残された遺物が消え去るのみでなく、継承すべき住民の記憶の中にもとどめえないとしたら、その文化的損失の大きさは計り知れないものがあろう。せめて、開発、整備の進む中で消え失せるかもしれない遺物、遺風を、和銅の事跡などともからめて地名等の記録をもとに残せたらと思い、ささやかな欄ではあるが「地名考」と銘打って会報の一隅に記録を続けたいと思う。

覗(のぞき)と覗岩
覗岩小字の「覗」は、国道140号線「和銅大橋入り口」のT字路から和銅大橋に至る、道の両側近辺を指します。「覗」の地名の発祥は、荒川は招木河原と横瀬川の合流点付近の東側崖に、堅い砂岩石からなる大岩が招木河原を向いて大きく覗いているので、そこが「覗岩」と名付けられ、この岩から東方旧県道までが小字「覗」とされたのです。
 覗岩の北側より荒川へ降りる細い岩道がありまして、岩の下には水神様が祀られておりました。古老の話によりますと、明治17年、筏問屋の坂本家で筏業と筏師の開運招福を願って水波能売大神を祀り込まれたといわれます。又、この道は子供達の水浴びや養蚕農家で養蚕具の洗い物道としても利用された掛け替えのない重要な道でありましたが、数年前覗岩の下部から降り口にかけ落盤があり通行不能になってしまいました。幸い覗き岩の上部面には何ら損傷もなく現状を保っていますが、すいじん旅館の露天風呂があり、この岩にかけてコンクリートで囲い冬場でも水が張ってあります。

★祝山に「和銅」の大文字が見えるようになります。
 和銅の大看板がよく見えるようにと、地主の方のご了解、ご協力を得て、和銅保勝会役員の労力奉仕で立ち 木が伐採されます。(1月28日予定)

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