和銅会報
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和銅会報 第5号 平成7年8月10日発行

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紙上・和銅案内(その4)
 「和銅採掘露天堀跡」、「黒谷の銅製錬所跡」、「金山鉱山跡」等、いわゆる和銅の遺跡を一通り大雑把に案内しましたが、まだまだ説明不足の点が多く、今後は個々の遺跡について更に歴史的地形的な解説を加えなくてはならないと思っていますが、今号では紙面の都合で、遺跡周辺の文化財と、遺跡に関連する考古資料の案内をいたします。

内田家住宅及び内田家文書
 前号案内図でお分かりのように、「ふるさと遊歩道」の道標に従って、黒谷駅から瑞岩寺に向かって歩きはじめるとすぐ畑中に赤い屋根の長屋門が見えてきます。内田家です。(屋号で「たけ」と呼ばれています)道の脇に説明板が建っています。
 秩父市指定有形文化財 内田家住宅及内田家文書
 この内田家の住宅は間口が八間、奥行が六間で中二階は養蚕部屋になっています。土間の柱は手斧(ちょうな)仕上げ、広間の上部に曲がりくねった太い横木がたてよこに組まれ、その下に神棚がおさめられています。この建てかたは秩父地方の大工のすぐれた技術によるもので県内には他に類のない住宅であります。建てられた年代は十七世紀初期のころと思われます。内田家のつづきの裏山に、北朝年号の青石板碑があり、このことから室町時代にこの地に居住していたことがわかります。
 古文書をみると内田家の人たちは、江戸時代初期より明治初年まで名主をつとめた人が多く、また慶長3年の地詰帳をはじめ、明治二年まで黒谷村の手配、村政・貢租・土地・身分・金融・宗教などを取りしきったことが書かれてあり、文化財として貴重な二六一点の近世文書が保存されています。
  昭和五十四年一月八日
秩 父 市 教 育 委 員 会
管理者内田竹太郎

蕨手刀 付 足金物2点
蕨手刀 聖神社の境内にある「和銅鉱物館」に入って右手正面のガラスケースに納められています。埼玉県指定有形文化財・考古資料です。

 「この「蕨手(わらびて)の刀」は明治41年10月、大野原古墳群の内、現原谷小学校校庭にあった円墳の中から出土したもので全長44.8センチ、刀身32.6センチ、柄頭が蕨の若芽に似た屈曲を持つところから蕨手の刀と称され柄と身は共作り、平背、平造、無反の刀相を示している。

 柄頭の懸通しの座金具は銅製の菊座で緑色、刀全体が銹化して黒褐色を呈している。蕨手の刀の関東地方からの発見は珍しく製作年代も7世紀から8世紀初頭と見られている。」「「秩父の文化財」より」

黒谷往来余録−地名のことなど−
私作 黒谷往来 絵図 (上黒谷)
 「私作黒谷往来」の紹介が一応終わりました。関連絵図のうち上黒谷の瑞岩寺周辺が載せられなかったので、今号で取り上げることとしました。「黒谷往来」のようなものを「和銅会報」で取り上げた意図にも触れながら、歴史探訪の上で往古の地名がどのような意味合いをもつものなのかも考えてみたいと思います。

 昔から風土記という名で知られているもので、地方別の風土、産物、文化等を書き記したものがあります。1番古いのは、「和同開珎」が発行されたすぐ後の和銅6年(713年)に元明天皇の詔によって諸国で作られた「風土記」です。近世になっては、和銅関係でもよく取り上げられる「新編武蔵風土記稿」があります。これは文政18年(1828年)に成立したもので、各郡村に分けて地理歴史が詳しく書かれています。「道中記」とか「黒谷往来」とかも広い意味で「風土記」とか「地誌」の1種と見てよいでしょう。

 このような記録に残された地名の中には、現代に生きていて、何となく由来の分かるものもあれば、意味不明に近いものもありますが、多くの類例を比較してみるとそれなりの命名の来暦が浮かんでくるものもあるようです。

 そこで、和銅の歴史を黒谷を中心にして尋ねるには、文献資料や考古資料が限られている現状から見て、古地名の研究調査が大変重要な手掛かりになるのではないかと考え、この「和銅会報」では、地名を大切に扱っているのです。

 「私作黒谷往来」を手始めに地名の確認や整理を進めていますが、さらに細かな字(あざ)、小名(こな−小字のこと)、屋号等にまでわたって、古文書類(水帳、古絵地図等)や伝承などを通じて集めたり分類整理をしたりして、黒谷の昔の姿をできる限り正しい形で将来に残すことに勉めたいと思います。その結果、和銅の歴史研究に一歩でも近づき得るようなことができたら望外の喜びと思っている次第です。

 さて、上黒谷の絵地図の地名から、昔の黒谷のどんな姿が浮かんでくるでしょうか。中でも、興味をひく1つは「堀ノ内」でしょう。各地に残っている地名ですが、特に関東地方に多く残っているようです。土地の利用が進むに従って、特定の集団や個人が1つの地域を占有するために生まれた名称だと分類する研究者もあります。堀をめぐらした中を指したのが「堀ノ内」の起源と思われますが、鎌倉・室町時代の地頭などの在地領主や、城下町の堀をめぐらした中の町、また土豪武士の舘址とその周囲にある田地のことも「堀ノ内」と呼ばれたようです。広さは、大体1町(109メートル)四方の正方形が基準で、小は半町4方、大は2町4方まで大きさの差があり、堀の水は防御だけでなく、農業用水としても用いられたと言われます。

 現在小字として残っている上黒谷の「堀ノ内」といわれるあたりは、どのような「堀ノ内」だったのでしょうか。古城址として「仲丸城址」があり「瑞岩山城址」があります。堀を掘った土を内側に盛って土塁で囲まれることが多かったといわれますが、土塁や堀の遺構などや、それらにまつわる伝承が残されているでしょうか。江戸初期の永高水帳に「ほりの内」「中丸」として地名は出てきて、畠もあります。とにかく、曽根坂峠より流れ出て「三王滝」で横瀬川に注ぐ「前沢」の、「寺の前」より下流を境として「八坂神社」あたりを含め、そこから「前沢」に平行して横瀬川に達する区画がおおよそ現在残されている「堀ノ内」になるようです。

 在来の地名を分割したり、植物と耕地を関連づけたりした地名と考えられものは、「上の原」「中原」「下原」「前原」や、「桐ノ木」「林中」「畑中」などです。古い時代のこのあたりの風景がパノラマ状に目に浮かぶような気のする地名ではありませんか。

 黒谷と和銅という観点に立てば、「硫黄水」とか「硫黄渕」なども鉱山との関係を思わせますし、「ぬくえ」に温井、温湯の字を当ててみると、又、面白く思われます。温泉ではないにしても、見た目には温かい水と昔の人に感じられたのではないか、などと思われます。

(今回は、上黒谷の例で考えてみましたが、黒谷の歴史の中で更に広く地名を通して考察を進めていきたいと思います。)

和銅保勝会−連絡・案内
 例年、本会の事業として実施しております美野山登山道、和銅の遺跡及び聖神社周辺の草刈りと清掃作業を「平成7年8月27日(日)午前8より」行います。

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